日本史– category –
-
幕末・維新
養君発表の六月朔日 ―― 安政五年、名を伏せた幕府と川に阻まれた京都の返書
安政五年(1858年)六月朔日。江戸城に例のとおり登城した御三家(尾張は断り)、御両卿、溜詰の面々が居残りを命じられた。 -
幕末・維新
文久三年二月の京都 ―― 諸大名召集と攘夷の演達
文久三年(1863年)二月十六日、朝六半時(午前七時)。政事総裁職の松平慶永が門を出た。初めての参内である。 -
幕末・維新
プチャーチンの長崎入港 ―― 穏当な使節と四十日後の露国旗
嘉永六年(1853年)七月十七日。長崎の洋上、遥かに白帆五艘。三ヶ所の番兵が早速に注進した。奉行方の番兵はやや遅れ、佐賀方が少し早かったが、奉行役所の前で佐賀方がつまずいて倒れ、奉行方が先になった、と奉行手附応接掛の馬場… -
幕末・維新
勅諚回達の二つの案文 ―― 安政六年六月、徳川斉昭が書いて出さなかった手紙
謹慎中の徳川斉昭が、二通の案文を家臣の前に置いた。そこに側用人の久木直次郎と、奥右筆頭取の原田八兵衛が加わった、と蘇峰は記す。 -
明治
「多謝々々」とパークスは言った ―― 明治二年二月二十八日、三条畷の刺客と攘夷論者の豹変
明治二年(1869年)二月二十八日、京都。この日、英仏蘭三国の公使が天皇に拝謁することになっていた。 -
幕末・維新
引き込む、と小栗は書いた ―― 文久元年七月、対馬から帰った小栗忠順の五通の手紙
手紙の用件は一つ、「今日ふい引込の儀」であった。 -
幕末・維新
間部詮勝の欺瞞策 ―― 安政五年十月、小御所の書付と「うそばかり」
小御所の下段。同席は武家伝奏の広橋光成と万里小路正房。引き取ったのは夜五つ時、午後八時であった。 -
幕末・維新
将軍の息のあるうちに ―― 安政五年七月五日、井伊直弼の尾水越処分
井伊直弼はいつもの刻限に登城し、この日の退出は夜九半時、午前一時に及んだ。理由は、将軍徳川家定の脚気が悪化したことであった。「公方樣御脚氣之御症にて、御勝不被遊」——将軍の脚気は重く、すぐれない、というのである。その夜、… -
幕末・維新
尾水越の不時登城 ―― 安政五年六月二十四日、屏風の内と外の一日
松平慶永の家臣中根雪江のもとへ、水戸の使者が来た。慶永も登城して相談に加わってほしい、という口上である。 -
幕末・維新
「奉恐入候」の楯 ―― 安政五年六月二十三日、徳川慶喜の井伊直弼詰責
安政五年(1858年)六月二十二日。江戸城から退出した一橋家の家老が、屋敷に戻って主人に一枚の書取を差し出した。幕府が勅許を待たずに米国との条約に調印した、という達しである。 -
幕末・維新
御違勅の三字 ―― 安政五年六月、徳川斉昭の建言と井伊直弼の答書
江戸の水戸藩邸で、徳川斉昭が一通の伺書に筆を入れている。その返事である。 -
幕末・維新
五月三日の封事 ―― 川路聖謨の立儲意見書と三日後の左遷
安政五年(1858年)五月三日。差し出す先は老中の堀田正睦まで。川路はもとよりその覚悟で、こうしたものだろう、と蘇峰は見る。
