虚実に拘らず ―― 安政五年七月二十八日、井伊直弼の駒込邸監守

あらまし

大老の井伊直弼が、安政5年(1858年)7月、徳川斉昭の屋敷を見張らせた一件である。斉昭は謹慎(家にこもらせる罰)の最中だった。7月28日、京都への特使に決まっていた間部詮勝が、江戸城で一通の書付を差し出した。支藩の兵を屋敷に詰めさせ、大目付と目付がときどき見廻る、という中身。

この命令は大老の意志そのものだった、と徳富蘇峰は記す。すでに跡継ぎは決められ、水戸父子と尾張・越前の藩主も処罰ずみだった。それでも水戸への働きかけは続き、その相手が支藩の高松城主・松平頼胤だったと蘇峰は書く。松平慶永の家臣・中根師質は『昨夢紀事』で頼胤を腹黒い人と評した。7月11日には幕府が水戸の家老人事に口を出し、当主の徳川慶篤は不当な干渉だと怒っている。

京都へ送られた風聞書(うわさを集めた書面)。確かな証拠はないと断りつつ、老公が毎日書いているのは京都への手紙だろう、などと並べた文書だった。蘇峰はこれを探偵の報告にすぎず、風や影をつかむ類だと退ける。京都からの返事は、そんなうわさは一切聞いていない、というものだった。

謹慎中の斉昭のようす。茅根泰の7月9日付の筆記では、麻の上下を着けて端正に座っていたとされる。会沢安は茅根泰への手紙で、雨戸を開けるなどして体を保ってほしいと案じた。夜にこっそり出歩くという風聞書の人物像とは遠い、と蘇峰は見る。

7月28日には町奉行にも命が下り、彦根・高松の両藩邸を守り、訴え出る水戸の者は拘留せよとされた。同日、間部詮勝は水戸の家老に、確かな証拠ではなく風聞によるやむを得ない取締だと伝えた。この上どんな申し立てをしても受けない、とも告げている。蘇峰は、弁解にならない弁解だと呼ぶ。井伊が公用人に示した手書も同じ調子で、事実かどうかを問わず、うわさを受けること自体が本人の不利益だとしていた。

7月29日、慶篤は家老を遣わして撤回を求めたが、幕府は答えなかった。8月1日には上使が斉昭を直に移すという知らせが走り、駒込屋敷に5、600人が死を覚悟して詰める。剣客たちが門下の若者を率いて小石川邸に入り、小姓の中村彦之進は長い刃の武器を弓袋に包んで運んだ。午後3時ごろ、まず沙汰止みという知らせが届いた。蘇峰は、井伊派が水戸を圧迫しすぎて四方へ裂け出る勢いを招いたと書いている。

この記事からは、証拠ではなくうわさで人が処分された十日余りの道筋が、茅根泰の筆記や会沢安の手紙、原田成徳から長岡是容への手紙からたどれる。

目次

新部屋前溜の書付

安政五年(1858年)七月二十八日、江戸城の新部屋前溜。原文
京都への特使に決まっていた間部詮勝まなべあきかつが、一通の書付(文書)を差し出した。原文
「列坐無之」と元本は書く。原文
ほかに同席する者はいなかった。原文原文

書付の中身は、駒込邸の監視だった。原文
謹慎(外出や交際を禁じる罰)中の徳川斉昭とくがわなりあきの屋敷へ、支藩の手兵を詰めさせ、大目付(上級監察役)と目付(監察役)が時々見廻れ、というもの。原文
「此れでは水戶齊昭に向て、全く戒嚴令を布いたも同樣だ」と徳富蘇峰は記す。原文原文

原文『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』第2章 NDL コマ 45

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このとき「台命」と呼ばれたものは、そのまま大老(幕府の最高職)井伊直弼いいなおすけの意志であった、と蘇峰は言う。原文
その井伊が、なぜここまで水戸に手を伸ばしたのか。原文
元本が挙げる鍵は、風聞という二文字である。原文原文

溜間の同席、井伊と高松

井伊直弼の一派は、すでに徳川慶福を継嗣に立て、水戸父子と尾張・越前の藩主を処罰していた。原文
反対党はほぼ片付いた。原文
にもかかわらず、水戸への干渉はやまなかった。原文
その画策の相手が、水戸の支藩、高松城主の松平頼胤まつだいらよりたねだったと蘇峰は書く。原文原文

二人は溜間の同席。原文
親戚の縁が重なり、「アンチ齊昭」において意気が合ったのだろう、というのが蘇峰の推定である。原文原文

水戸側はこれを早くから恐れていた。原文
松平慶永まつだいらよしながの親臣、中根師質も『昨夢紀事』に、頼胤を「腹黑き人」と書き、弘化元年(1844年)の国難もこの侯の陰計が多かった、と記している。原文原文

原文『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』第2章 NDL コマ 39

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その予感は、まもなく形になる。原文
高松の頼胤は、斉昭の第九子で忍藩主の松平忠矩に、きつい口上を伝えた。原文
忍藩主が「柄へ手を可掛程」、刀の柄に手をかけそうになるほど憤ったが、こらえて退出した。原文
この一節は、徳川慶篤とくがわよしあつの話を茅根泰が書き留めたものである。原文原文

七月十一日、幕府は水戸の家老(藩の重臣)を呼び出し、国許の家老鈴木重矩と太田資春を江戸に召して任命せよと命じた。原文
頼胤が井伊に勧めた結果だという。原文
水戸の当主徳川慶篤は不当な干渉と憤り、拒もうとした。原文
頼胤は大老の意向を掲げ、「台命」には違背できぬと押し付けた。原文原文

蘇峰はこの経緯に、二つの側の責めを見る。原文
一つは斉昭自身。原文
頼胤を懐柔できなかったのは、斉昭の「不德の致す所」でもあろう、と。原文
もう一つは井伊と高松。原文
彼らは水戸を「餘りに恐れ過ぎたる乎。將た惡み過ぎたる乎」。原文
もし高松が調停者になっていれば、桜田の変を見なくてすんだかもしれない、とまで書いている。原文

中山道を走った風聞書

監視と前後して、幕府は京都へ一通の風聞書を送っていた。原文
宛先は伝奏(取り次ぎ役)の広橋大納言(朝廷の高い官位)と万里小路大納言。原文原文

添え状にいう。
前中納言(朝廷の高い官位)(斉昭)は言行に相違があってやむなく謹慎を命じたが、京都は遠い、どう聞き込まれるか分からぬ、と。原文
自分が上京して詳しく申し上げるつもりだが、将軍の大病で延引するかもしれないので、まず差し含んでおいてほしい、という趣旨である。原文

風聞書の本文は、こう始まる。原文
「老公日々御執筆は、的證も無之候得共、多分京地への御書にも可有之哉」。原文
確かな証拠はないが、老公が毎日書いているのは、たぶん京都への手紙だろう、という。原文
続いて、奸臣たちが謹慎解除を工夫している、家中の軽輩は井伊もいずれ京都から沙汰(通知・命令)を受けると囁いている、鈴木・太田再勤への排斥運動がある、水道橋の切手御門から忍び出た者がいる、と並ぶ。原文原文

蘇峰はこれを「探偵報告書に過ぎない」とし、「捕風攫影の類」と切り捨てる。原文
風を捕らえ影をつかむような話、というのである。原文

では、斉昭が実際に書いていたものは何か。原文
蘇峰が示すのは一通の文案である。原文
仮条約調印で主上が逆鱗のあまり譲位されるという噂を聞き、それでは恐れ多いから思い止まっていただきたい、と鷹司太閤・右府に懇願する文案である。原文
封紙には斉昭の手記がある。原文
「此書認六日便に可出筈之處、五日愼被仰付候故、承せ候へば、未出由故引返す」。原文
六日の便で出すはずだったが、五日に謹慎を命じられたので確かめると、まだ出していないというので取り戻した、というのである。原文原文

蘇峰はこれを「老臣の君主に對する、至當の態度」と評し、この書すら発せぬまま撤回した人物に「日々執筆」を言い立てるのは「寃」、つまり冤罪だと書く。原文原文

原文『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』第2章 NDL コマ 42

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この風聞書は、川止めを避けるためと称して中山道を通り、返翰(返事の手紙)も中山道で「早々刻附宿次」にせよと命じられた。原文
返翰には「右樣之風聞は、一切未承候」とあった。原文
京都ではそんな噂は一切聞いていない、と伝奏は答えたのである。原文原文

麻の上下、端坐の老公

謹慎中の斉昭はどうしていたか。原文
茅根泰の七月九日付の筆記がある。原文
たいそう壮健で、麻の上下を着け、端坐しておられた、という。原文原文

水戸にいた会沢安が茅根泰に送った書にも、駒込は弘化元年のときと同じく厳重な謹慎で恐れ入る、とある。原文
そして、御高年でもあるから、上下を少し略すとか、雨戸を開けるとか、少しでも体を保護されてはどうか、申し上げても承知されないだろうか、遠方から憂慮する、と書く。原文原文

これが水戸側の言葉であるにせよ、「殆んど之を疑ふ餘地はあるまい」と蘇峰は言う。原文
雨戸を閉め切った屋敷で麻の上下を着たまま座る老人と、風聞書が描く「夜分極々御忍びにて御出歩行」の老公。原文
その距離は、あまりに遠いように読める。原文原文

七月二十八日の命令は、こう組み立てられていた。原文
屋敷に詰めるのは支藩高松の兵で、尾張・紀伊の家来も立ち入る。原文
水戸の附家老中山龍吉は幼年ゆえ、というのがその理由である。原文原文

町奉行(江戸などの町を治める役人)にも命が下った。原文
与力(奉行の下で働く役人)・同心(下級役人)を集めて彦根・高松の両藩邸を守れ。原文
要所を巡邏し、水戸の士民で訴え出る者があれば「直に拘留」せよ。原文原文

同日、水戸の家老が召喚され、間部詮勝が口達した。原文
このたびは「確證にても有之、被仰出候儀には無之、風聞流言之廉を以、無餘儀御取締も被仰出候」。原文
確かな証拠があって命じたのではない、風聞流言を理由にやむなく取締を命じたのだ、という。原文
だからこの上どんな正当な申し立てをしても「御不爲メ」、ためにならぬ、と。原文原文

蘇峰はこれを「申譯とはならない申譯」と呼ぶ。原文
第一に確証がなく風聞である。原文
第二にいかなる理由があっても弁疏を聞き入れない。原文
「世に無理無法の措置あるも、此の如き無理無法は、頗る希有」と書く。原文原文

原文『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』第2章 NDL コマ 46

斯る間部詮勝の口より出でたる申譯は、全く申譯とはならない申譯だ

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同じ日付で、井伊が公用人(主君の対外の用向きを担う役)に示した手書がある。原文
今日の取り計らいの大意は、謹慎の仕方がよろしくないという疑いがあり、種々の風聞もあるので、「虛實に不拘、右樣風聞を御受被成候は、御身之御不勝と申もの」。原文
事実かどうかにかかわらず、そういう噂を受けること自体が本人の不利益なのだ、という。原文
さらに、退出の途中に用心せよ、夕方には屋敷近辺を見廻れ、公用人は一同出勤していろ、とも書く。原文原文

井伊がいかに風聞で処分したか、そしていかに自身の身辺を警戒したか、「之を察するに餘りあらむ」と蘇峰は記す。原文
水戸から見れば、高松は弘化以来の「惡魔視」の対象、水野忠央は一橋排斥・紀州擁立の「黑頭巾」である。原文
その二人を斉昭の見張りに据える。原文原文

木曾街道の亡命説

風聞は井伊派の内側でも増殖していた。原文
井伊の公用人宇津木景福が、在京の井伊代表長野義言に書き送った一節がある。原文
老公は夜分に忍びで出歩き、御簾中から上野宮様へ手紙を出し、京都へ頻りに手入れをしている、駒込へは今日も京都から飛脚が着いた、という。原文
これまで京都へ十分に讒訴されているに違いないから、真顔で聞き込まれて謹慎御免の沙汰が出れば、鎮まったものが再発して争乱になる、と心配している。原文原文

京都ではこんな噂も流れた。原文
水戸老公は駒込邸におらず亡命した、という噂である。原文
有志は例の流言だと信じなかった。原文
ところが東奉行組の森孫六が来て、密かに言う。原文
江戸から急報があり、老公は近習を少々連れて木曾街道から京都へ上ったので密々に穿鑿せよと命じられた、と。原文
鷹司殿の縁家に潜居か、粟田宮か、鵜飼の方か。原文
大坂の土屋に潜居という説もあり、今日大坂へ二十人ほど下した。原文
一説には北海を船で西国へ下ったとも。原文原文

原文『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』第2章 NDL コマ 48

また大坂土屋に潜居といふ說もあれば、今日大坂へ廿人程穿鑿に差下せり

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「風聞も此に到れば、寧ろ滑稽に幾し」と蘇峰は書く。原文
そしてこう付け加える。
この風聞は一方のみではなかった、井伊派もまた風聞に誤られ、動かされたのだ、と。原文原文

八月朔日、弓袋の中の刀

七月二十九日。原文
慶篤は家老の岡田徳至と太田資忠を遣わし、前日の命令の撤回を求めた。原文
罪跡があるなら家老が取調べを受ける、疑いをかけられただけで「祖先以來忠孝之志取失候姿」、忠孝の志を失った姿になるのは無上の恥辱だ、尾張・紀伊の家来まで立ち入るのは三家の格式が立たぬ、と。原文
国許の士民が「動立候」、騷ぎ立ちはしないかと深く懸念する、とも添えた。原文原文

幕府は答えなかった。原文
かわりに八月朔日、御城附の横山信熈から急報が届く。原文
駒込の水戸家来を残らず引き払わせ、連枝(将軍家や大名家の分家)方だけを詰めさせるよう目付に達した。原文
昨日は「營中開も度々有之」、城中で秘密会議が何度もあった、と。原文原文

さらに飛語が走る。原文
上使が直に駒込へ来て即日移す。原文
水戸藩士原田成徳が熊本藩細川家の家老長岡是容に書いた手紙によれば、この報が入ったのは朝四つ半、午前十一時ごろである。原文
同志一同「最早是迄」と必死を極め、慶篤からも、たとえ上使が来てもけっして渡してはならぬと君命が出た。原文
駒込屋敷に家老始め「五六百人相詰、切り死之覺悟にて」上使を待った。原文原文

その日、八つ半、午後三時ごろ。原文
城附から「先づ御沙汰止に相成候旨」、まず沙汰止みになった、と知らせが来た。原文
訛伝だったのか、一旦の評議が水戸勢の勢いに辟易して止んだのか。原文
「何れにしても頗る物騒の沙汰」と蘇峰は書く。原文原文

その朝の光景を、元本は細かく写している。原文
小石川邸から駒込へ走る藩士は皆非常の決心を顔に出していた。原文
小姓(主君の身近に仕える役)の中村彦之進は、得意の眉尖刀を携えたかったが外聞を憚り、弓袋に包んで弓に見せかけて持って行った。原文
水戸藩士で有名な剣客(剣術家)の千葉周作を初め、府下の剣客斎藤弥九郎、月岡一郎、千賀熊太郎らが門下の壮士を率いて小石川邸に入り、一方の防禦を願った。原文
台所掛吟味役の川又才介は、殿中で命を受けるとそのまま駈け出し、家にも寄らず早馬で水戸へ疾駆した。原文
本来そういう使いに立つ職ではなかった、と元本は注する。原文原文

原文『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』第2章 NDL コマ 51

其他千葉周作、(水戶の藩士にて有名の劍客なり)千賀熊太郞等(皆平生水藩より扶持米を給せし者なり)一方の防禦に當らんと乞ひたるを以て門内を警衞せしめたり

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「諺に窮鼠猫を食むと云ふ」と蘇峰は書く。原文
井伊派は必要以上に水戸を圧迫し、藩主に十二分の統制力がなければ「潰裂四出」、四方へ裂けて飛び出す勢いを誘った、と。原文原文

弓袋の中の眉尖刀。原文
それが弓のままで終わるかどうかを、この八月朔日にはまだ誰も知らなかった、と考えることもできるのではないだろうか。原文

この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』民友社、1935年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1223987
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻3』PID 1041909
日付・人名本文の日付 6 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 13 名のうち 12 名が『維新史料綱要 巻3』にも現れます。

本記事は『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物井伊直弼徳川家茂徳川慶篤徳川斉昭松平慶永松平頼胤間部詮勝年1858安政