「奉恐入候」の楯 ―― 安政五年六月二十三日、徳川慶喜の井伊直弼詰責

あらまし

一橋家の主・徳川慶喜のもとへ、江戸城から戻った家老が一枚の書き付けを差し出しました。安政5年(1858年)6月22日、天皇の許しを待たずに米国と条約を結んだという知らせ。顔色を変えた慶喜は、天皇の命に背くことが許されるのかと家老たちに問いました。

慶喜は大老と老中を屋敷へ呼べ、来られぬなら翌朝こちらから城へ行くと告げます。家老たちはためらい、将軍のそば近くに仕える平岡丹波守を通じて大老へ伝えました。田安家の家老・水野忠徳は慶喜にすり寄り、この機会に大老を退けよとささやいたといいます。22歳の慶喜にこれ以上油を注ぐ必要もあるまい、というのが蘇峰の見方です。

蘇峰はこの登城を語る前に、すぐれた人を推すという一件を置きます。慶喜を将軍の代理に立て、慶永を補佐役として政治の上に据える筋書き。一橋家から将軍を出す道が細り、望みは慶永の推薦一点に集まったと蘇峰は記します。邪魔とされたのは老中の松平忠固でした。ただし大老の井伊直弼がこの案を受け入れる筈はない、とも蘇峰は見ています。

6月23日、慶喜は田安慶頼とともに登城し、初対面の井伊と向き合いました。労をねぎらったうえで、条約の調印を承知していたのかと切り込みます。井伊は頭を下げて恐れ入るとだけ繰り返し、はっきり答えません。追い詰められると、初めは拒んだが数に押されて同意したと漏らしました。恐れ入るの一点張りで受け流され、慶喜も力が抜けただろうと蘇峰は見ます。

話は将軍の跡継ぎに移り、井伊は紀伊殿に決まったと認めました。慶喜が安心したと述べると、井伊は喜んでありがたいと応じます。逆に紀州家の跡を問われた井伊は、慶喜自身にその気はないかと持ちかけました。慶喜はとんでもないと退け、蘇峰は取り込みの誘いに乗らなかったと見ています。井伊が公用人の宇津木六之丞に語った記録では、この場は笑ってすませたことになっています。

大老が退くと、老中の久世広周がやむを得ぬ事情があったと言いかけました。慶喜は遮り、英仏の軍艦はどこに何隻来ているのかと問い詰めます。まだ来ていないと聞くと、見えもせぬ船を恐れて天皇の命に背くのかと迫りました。老中の内藤信親も口をつぐみ、間部詮勝は落涙するばかり。やがて間部と太田が、京都へ使者を出す件を話し合うことで場は収まりました。

井伊を詰めた一日が、『昨夢紀事』『昔夢会筆記』や中根雪江、宇津木六之丞の筆記からたどれます。

目次

慶喜の違勅非難と水野の進言

安政五年(1858年)六月二十二日。原文
江戸城から退出した一橋家の家老(藩の重臣)が、屋敷に戻って主人に一枚の書取を差し出した。原文
幕府が勅許を待たずに米国との条約に調印した、という達しである。原文原文

書取を一読した徳川慶喜とくがわよしのぶの顔色が変わった。原文
ここに至っては黙って傍観する時ではない。原文
慶喜は家老たちに問いかけた。原文
「違勅といふ事は、有るべき事歟、有るまじき事歟」。原文
勅命に背くということが、あってよいことか、あってはならぬことか、と。原文原文

原文『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』第12章 NDL コマ 179

此時又掃部頭に「御養君はもはや定まらせられしや」と尋りたるに「紀公と內定したり」と答ふる故「そはめでたき事なり」といひしに、州の跡には思召あらせられずや」といひしが、予は唯「ふふん」とのみいひて何とも答へざりき

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家老が、天下に勅命に背く者があろうか、と答えると、慶喜は言った。原文
お前たちもそう思うなら、もう相談することはない。原文
これから城へ行き、大老(幕府の最高職)老中(幕府の重臣)が揃ってこの屋敷へ来るよう伝えよ。原文
用が多くて来られぬなら、明朝こちらから登城(江戸城に出仕すること)してもよい、と。原文原文

家老たちはためらった。原文
慶喜は、奉じがたいなら奉じがたいと申せ、と声を励まし、家老は恐れ入って引き受けたという。原文
この見幕は『昨夢紀事』に残る、と蘇峰は記す。原文原文

家老は大老に直に言うのを恐れ、御側衆(将軍の側近)の平岡丹波守に相談した。原文
丹波守も驚き、退出前の大老に伝えた。原文
「御大老初愕然たる有様」であったという。原文
井伊直弼は、今日は用が多く退出も夕刻に及ぶので、明朝登城されれば拝謁する、と答えた。原文原文

蘇峰が目を留めるのは、慶喜に呼び寄せられた田安家附家老の水野忠徳である。原文
水野は慶喜の膝元へ摺り寄り、声を潜めて言ったという。原文
明日は又とない大機会ゆえ、ついでに大老を挫き、退けなされば天下第一の幸甚である、と。原文
血気に逸る二十二歳の慶喜に、これほど油をかける必要もあるまいに、と。原文
慶喜は水野を「扨々愉快なる男なり」と円四郎に語ったという。原文原文

薦賢という最後の札

この登城を語る前に、蘇峰は「薦賢」の一事を置く。原文
薦賢とは、一橋擁立派が輔佐役に望んだ松平慶永を、将軍の輔佐に推すことである。原文原文

有志の大名や志士(国事に奔走した武士)の間で、以心伝心に了解されていた筋書きだった。原文
慶喜を西城に入れ、将軍代理として将軍の役目を行わせる。原文
同時に慶永よしながを輔佐役として執政(政務を執る役)の上に置く。原文
そうして江戸の政府を有力にし、朝廷を奉じて外患に当たる。原文
攘夷(外国を追い払うこと)派も開国派も、この点では同じ意見であった、と蘇峰は書く。原文原文

しかし一橋擁立は次第に困難になった。原文
残る策は二つ。
養君(将軍のあととり)を伺う際に朝廷が人名を指定して下すこと。原文
それが望めぬなら、速やかに慶永を輔佐に推し、その手で一橋擁立を果たすこと。原文
前者は見込みがなかったから、「千山万壑悉く慶永推薦の一事に集まり来つた」と蘇峰は記す。原文
あらゆる流れが慶永推薦の一点に注いだ、というのである。原文原文

邪魔物は老中の松平忠固まつだいらただかただった。原文
六月二十三日付で開国派の岩瀬忠震が慶永に送った書には、忠固免職を「洗桐一事」と呼び、「此後者薦賢一事、百般之根基、当今之大緊要」とある。原文
慶永の親臣中根雪江によれば、遠江守伊達宗城だてむねなりがすでに慶永を大老に推挙していたが、忠固を除いた後でなければ叶いがたいとの返答であった。原文原文

原文『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』第12章 NDL コマ 168

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そこで例の薦賢を申し立てる、との趣意であったらしい、と蘇峰は伝える。原文原文

だが大老就任後の井伊が、慶永を輔佐役にすることを承引する筈はない、と蘇峰は見る。原文
屋上屋を架すものだ。原文原文

「奉恐入候」の一点張り

慶喜は田安慶頼と共に登城した。原文
二人は別々に当局者と会い、慶喜はまず井伊直弼いいなおすけと対した。原文
両人は初対面であった、と蘇峰は書く。原文原文

原文『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』第12章 NDL コマ 170

廿三日には共に同じく登城して、面々を詰責す可しとのことであつたが、田安慶賴も、よ決行することゝなつた

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慶喜は先に労をねぎらった。原文
容易ならぬ時節に大老職を蒙り「太儀千万」、その忠勤を頼もしく思う、と。原文
井伊は喜んだ顔色で、粉骨する心得と答えた。原文原文

そこから慶喜は切り込んだ。原文
この度の仮条約調印は承知の上か。原文
井伊は低頭平身して「奉恐入候」と答えた。原文
恐れ入ります、と。
将軍の考えか、伺いの上か、それとも老中の思召か。原文
井伊は頭も上げず、恐れ入る旨のみを繰り返して有無の答えをしない。原文原文

慶喜は推して問う。原文
さだめてお前は不承知で、上京して勅許を求めた堀田正睦と松平忠固の二人が取り計らったのではないか。原文

慶喜はさらに詰めた。原文
堀田が上京して勅答もあったのに、これでは将軍の違勅にならぬか。原文
井伊は答えた。原文
「始の程は拒み候ひしかど、多勢に無勢、致方なく、遂に同心仕候」。原文
初めは拒んだが、数で押されて仕方なく同意した、と。原文
「流石の井伊も、全く本音を吐かざるを得なかつた」と蘇峰は記す。原文原文

済んだことは今更どうにもならぬ。原文
だが違勅ともなるべきことを宿次奉書で奏上するとは何事か。原文
朝廷を軽んずる筋にもなる。原文
早々に上京して将軍のために申し訳をせねば済まぬ、と慶喜は言った。原文
井伊は、私共の内より早々上京して申し訳するので、これまでのことは幾重にもご免下さるよう、と答えた。原文原文

「全く暖簾に腕推し」であった、と蘇峰は見立てる。原文
井伊は老獪で、恐れ入るの一点張りで一切を甘く捌き去り、慶喜も力抜けの感があったであろう、と。原文原文

養君問題の決着と紀州家への誘い

話は養君問題に移った。原文
どこに決まったのか、という問いに答えない。
慶喜が、いよいよ紀伊殿に決まったかと問うと、井伊は「然候」と答えた。原文
そうです、と。原文

慶喜は言う。養君について世上に雑説があり、自分も関係する形で心配していたが、安心した。原文
幼年というが、お前が大老として輔佐するなら何の不足があろう、と。原文原文

「如何にも一橋慶喜は、好辞令に富んでゐた」と蘇峰は書く。原文
斉昭なりあきの「慶喜養君の儀は真平御免を被りたし」という辞譲とは同一視できまい、とも。原文
慶喜は聡明ではあるが勇者ではなく、身を挺して難局に当たることを本来望んではいなかった、というのが蘇峰の見方である。原文原文

井伊は色を直し、喜び満面で「誠以難有安心仕候」と言った。原文
まことにありがたく安心した、と。原文
慶喜は、決まった上は一日も早く広めて天下の嫌疑を決すべし、明日にも、と勧めた。原文
井伊は指を折り、明日は御精日なので明後日では、と答えた。原文
ただし蘇峰は付け加える。
幕府は発表を六月十八日頃と予定していたが京都の返信が遅れており、六月八日付のその返信は二十三日に奥御祐筆の志賀金八郎が御用部屋に持ち出した。原文原文

次に慶喜が紀州家の跡を問うと、井伊は行き詰まった様子で、しばらくして笑みを含み、「御前に思召はあらせられずや」と言った。原文
あなたにお考えはないか、お世話しよう、と。原文
慶喜は「そはけしからぬ事を申され候」と退けた。原文
一橋家を離れがたい事情があって養君すら固辞したのに、紀州家など思いもよらぬ、と。原文原文

「流石に井伊もさる者、此場に於て、乍ち一橋を生擒にせんと企てた」と蘇峰は書く。原文
だが慶喜もその口車に乗る者ではなかった、と。原文原文

原文『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』第12章 NDL コマ 175

但だ慶喜もさるもの、決して井伊の斯る口車に、浮かと乘る者ではなかつた。

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別の一件について慶喜はどちらでも異議はないと答え、井伊は取り払えば大勢の迷惑人が出るから、そのままにと考えていると喜んだ。原文
この会話は慶喜から円四郎へ、円四郎から中根雪江へと移って筆記されたもので、多少の増減はあろうが大体は信憑すべきだろう、と蘇峰は記す。原文原文

見えもせぬ船

大老が退くと、閣老衆が残らず慶喜の前に出た。原文
太田、間部、松平乗全まつだいらのりやすは上座にいたが何とも言わない。原文
老中久世広周くぜひろちかが「夫には無拠御訳合も候て」と言い出した。原文
やむを得ぬ事情があって、と。原文原文

慶喜は言葉を遮った。原文
「ヤア大和守、無拠とは何事なるぞ、定て英仏数十艘の軍艦の事なるべし。其軍艦何処へ渡来せしや」。原文
その軍艦はどこへ来て、何十艘見えるのか、と。原文
久世が、まだ渡来はしていないと答えると、慶喜は言った。原文
五十艘も百艘も寄せ来て、手詰めの戦闘になり、大将分も数多討死し、次の一戦で城が落ちるかと思うほどになれば、その時こそやむを得ぬと言えばよい。原文
説客の言に欺かれ、見えもせぬ船に恐れて、勅旨に違うことをして済むものか。原文原文

原文『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』第12章 NDL コマ 177

五十艘も、百艘も、運拙くして大將分も數多討死に及び、此上一戰に及びなば、に落入るべきかと思ふ計りになりなば、其時こそ餘義なくとも申べけれ

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「如何にも正々堂々たる議論だ」と蘇峰は評する。原文
閣老たちも、やむを得ぬ事情について十分な吟味も知識も持ち合わせていなかった、と。原文原文

慶喜はさらに、東照宮以来朝廷を尊崇してきたのに、当代に至って夷の虚喝を恐れて違勅になるのは将軍の考えか、お前たちの取り計らいか、と迫った。原文
久世は一言もない。原文
「其の口吻は、水戸斉昭その儘だ」と蘇峰は書く。原文原文

老中内藤信親が、海防掛(海防担当役)の厳しい申し立てで伺いの上に取り計らった、と取りなした。原文
慶喜は言う。原文
伺いの上と言うからは、お前たちが違勅の罪を将軍に負わせるのだ。原文
万一征夷の称号を召し上げられたら何と申し訳するか。原文原文

久世も内藤も閉口し、座は白けた。原文
間部詮勝まなべあきかつは初めから何故か落涙ばかりしていたという。原文
やがて間部が太田に向かい、我々は今日のことなので何とも申せぬが、京都への御使を評議してはどうかと言い、太田がその旨を請けた。原文原文

間部と太田はこの二十三日当日に老中に加わった者である、と蘇峰は記す。原文
条約に前科のある忠固や堀田の代わりに、何の行き掛かりもない者を当てたのは、無心か有心か井伊の胸中は測りがたいが、決して失策ではなかった、と。原文原文

二つの記録

この日の会見には、二つの側からの記録がある。原文
一つは慶喜自身が後年語った『昔夢会筆記』だ。原文
大老・老中を邸に召し寄せようとしたのは無根だが、営中で井伊に、無断調印を宿継奉書だけで上奏した失体を詰責したのは事実だという。原文
紀州の跡に思召はないかと問われ、ただ「ふふん」とだけ答えた。原文原文

井伊については、「掃部頭は断には富みたれども智には乏しき人なりき」。原文
決断力はあるが知恵に乏しく、どこか傲岸で人を見下す風があった、と回想する。原文
体が肥満して常に反り身だったから、そう見えたのかもしれない、とも。原文

井伊側の記録も残る。原文
井伊が公用人(主君の対外の用向きを担う役)宇津木六之丞に語ったものだ。原文原文

そして会見の中身は「色々御談之上」の四字で括られる。原文
紀州家の相続を問われ、あなたが入られてはと言うと、慶喜は「大藩之義、自分抔参り候ては、迚も納り不申」と答えた。原文
大藩ゆえ自分などが行っても収まらない、と。原文
そして井伊は「御一笑被遊候」。原文
笑ってすませた、というのである。
井伊が慶喜に好感情を持っていなかったことが判る、と蘇峰は記す。原文原文

田安慶頼の会見記もある。原文
へつらい、媚びる会見であった、と蘇峰は評する。原文
「若し一橋慶喜をして、之を聴かしめたらんには、何と云ふであらう」。原文原文

原文『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』第12章 NDL コマ 180

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同じ日、同じ城中。原文
一方の座には恐れ入るの楯があり、もう一方の座には恐悦至極の挨拶があった。原文
二十二歳の慶喜が畳みかけた言葉のうち、井伊の側に残ったのは四字と一つの笑いだけ、と読むこともできるのではないだろうか。原文

この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』民友社、1935年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1223976
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻2』PID 1046669
日付・人名本文の日付 4 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 13 名のうち 11 名が『維新史料綱要 巻2』にも現れます。

本記事は『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物久世広周井伊直弼伊達宗城徳川慶喜徳川斉昭松平乗全松平忠固松平慶永間部詮勝1858安政