あらまし
一橋派の旗頭である松平慶永は、京都から戻る堀田正睦を待ちかねていました。安政5年(1858年)4月、慶永は使者を立てて迎えさせます。手渡された手紙は、書き出しから穏やかでない調子。今までどおりなら徳川の天下を潰した罪は逃れられない、と結んでいました。蘇峰は、紀州派の動きもそれ以上に激しかっただろうと見ています。
帰り道をさかのぼると、4月7日に美濃赤坂駅で同僚の手紙を受け取っています。10日には信州落合駅で奥右筆の早川庄次郎に会い、言い含めて先に帰らせました。堀田は条約を天皇に認めてもらうために上京していました。持ち帰ったのは許しではなく、ほとんど条約否定にあたる返答。2か月の滞在は京都をよくするどころか悪くした、と蘇峰は記します。
蘇峰が引く『幕末政治家』の評は手厳しいものです。同書によれば、堀田は見識のある閣老でした。それでも慣れない衣冠と作法に縛られ、口下手で公卿に押されたと同書は述べます。川路聖謨は談笑で人を取り込むのは得意でも、正面からの議論は長所ではないと評されます。岩瀬忠震は弁が立っても、身分が低く公卿の席に並べませんでした。
橋本左内が三条実万に会った記事では、外国の事はまるで分かっていないという評でした。金の力で関白らを取り込み、外交を幕府に任せる許しの間際まで進みました。しかし志のある公卿たちの議論に破られ、失敗の跡を京都に残したと同書は結びます。その翌日の夜、孝明天皇は左大臣近衛忠熈に手紙を書きました。関白に違う心があれば三条・久我らと相談し、関東の言い分をのまないでほしいという頼みです。
その手紙は、遷都のうわさが出ても止め、身がどうなろうと構わない覚悟だと記しています。堀田の出発の翌日、4月6日、梅田は天皇の命令をありがたいと手紙に書きました。京都側の考えは、条約は反対、跡継ぎは一橋を推すというもの。堀田は条約が主で跡継ぎが従、井伊直弼は跡継ぎが主で条約が従だったと蘇峰は並べます。許しを待たずに調印する決心が道中で固まったのだろう、と蘇峰は推しています。
井伊直弼は大名の庶子で、養子の口を探しても思うようにいきませんでした。あきらめて自分の住まいを埋木舎と名づけたほど。やがて兄たちが相次いで世を去り、嘉永3年11月、36歳で彦根城主となります。蘇峰は、策も計略もなく押し通したその政治を、滝つぼへ落ちる舟にたとえています。堀田は、その井伊によって自らの失墜が来るとは思い及ばなかったと蘇峰は書きます。
京都での2か月が何を残し江戸で誰が待っていたのかは、松平慶永の手紙、孝明天皇から近衛忠熈への一書、『幕末政治家』の人物評からたどれます。
蕨駅の一書
安政五年(1858年)四月。京都から戻る閣老の堀田正睦は、江戸の手前、最後の宿を板橋にとらず、蕨駅にとった。そこへ一橋派の旗頭松平慶永の使者が追ってくる。原文
慶永は堀田の入府を待ちかね、わざわざ使いを立てて迎えたのだ、と蘇峰は記す。原文原文
「渡された内書は、書き出しから穏やかではない。」の段落を削り、次の段落の頭を
渡された内書は、書き出しから穏やかではなく、結びはさらに強い。原文原文
結びはさらに強い。
「德川の天下は、貴兄始御潰し被成候と申ものにて、其罪は御遁れ難被成と奉存候」。原文
今までどおりの仕向けでいくなら、徳川の天下はあなた方が潰したことになり、その罪は逃れられない、という切言である。原文
一橋派がここまで焦っているなら、紀州派の動きもそれ相応か、それ以上に激しかっただろう、と蘇峰は想像する。原文原文
堀田の道中を遡っておこう。原文
四月七日、美濃赤坂駅で同僚からの書状を受け取った。原文
十日、信州落合駅で、江戸から西上してくる奥右筆(文書を書く役)早川庄次郎に出会い、含みを言い渡して先に帰東させた。原文原文
六十日の京都
堀田は条約の勅許を得るために上京した。原文
持ち帰ったのは勅許ではなく、ほとんど条約否定を意味する勅答である。原文
面倒の上塗りをして帰ってきた、というのが蘇峰の言い方だ。原文原文
骨を折った者がいなかったわけではない。
それが無効だったばかりか、かえって反対の気運を激成した趣きがある、と蘇峰は見る。原文
二か月の滞京は京都を善化するより悪化させた、というのである。原文原文
蘇峰が引く『幕末政治家』の評は容赦がない。原文
堀田は識見のある閣老だが、身体肥満で容貌が閑雅でなく、着慣れない衣冠と物慣れない礼式に縛られて威望を損じた。原文
しかも生来の訥弁で、公卿(朝廷の高官)の得意な長い舌に敵しがたく、第一の論弁で早くも後れを取った。原文
川路は談笑の間に人を籠絡する老獪こそ得意だが、堂々たる論弁は長所でない。原文
岩瀬は才弁縦横でも、朝廷では従五位下朝散大夫の身柄で、堀田と公卿の席に列することができなかった。原文原文
備中守は識見は隨分ありし閣老なりしかども、身體肥滿にして容貌閑雅ならざるに、物慣れざる延禮に拘束せられて、先づ閣老たるの威望を損し
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く公卿の側にも事情があった。原文
橋本左内が三条実万に内謁した記事によれば、実万は内国の事情に通じて事理分明だが、外国の事はまるで会得していない、という評だった。原文
黄金の力は関白(天皇を補佐する最高の官職)その他を籠絡し、外交はすべて幕府に委託という勅許の間際まで行った。原文
そこで「公卿有志家團體の議論」に破られ、堀田は空しく失敗の歴史を京都に残した、と同書は結んでいる。原文原文
堀田の帰府が決まったのち、ある日の戌の刻、孝明天皇は左大臣近衛忠熈に宛てて一書をしたためた。原文
堀田はまず帰府となり、ひとまず静まるだろう。原文
しかしこれからの関東の返答ぶりが大事であり、心配は少なくない、という書き出しである。原文原文
関白に少しでも心の違うところがあれば、三条・久我ら「忠魂之人々」と談合してほしい、と頼む。原文
今後万一不測のことが起きても決して驚かず、心を折らず、まして関東の言い分を承引しないように、という意味である。原文
遷都の風聞があってもそれは固く止め、できる限りこの平安城にいることが肝要だ、とも添えた。原文原文
手紙には歌の一節も引かれている。薩摩の志士(国事に奔走した武士)有馬新七の詠歌のことだろう、と蘇峰は推す。原文
じっくり考えると油断はできないと嘆息される。原文
続く一句、「一身以何成共、强て不頓著之積に候事」。原文
わが身がどうなろうとも、あえて意に介さない覚悟だ、という言葉に、身をもって国に殉じようとする精神が迸っている、と蘇峰は読む。原文原文
もう一通、梅田雲浜が青蓮院宮の下問に答えて差し出した意見書がある。天下の民は皆王臣であるから、まず諸侯(大名たち)へ勅命を下すべきで、応じない諸侯があれば三公列卿百官と天下有志の者をもって「御親征」なさるべきだ、という。原文
伊勢の神宮に誓って英断された以上、百度言上しても許容はない、と幕府に告げよ、とも書く。原文
青蓮院宮が主上の至高顧問であったことからすれば、これが天覧に入ったことはほとんど疑いがない、と蘇峰は見る。原文原文
堀田出発の翌日、四月六日。原文
梅田は人に宛てた手紙にこう書いた。原文
「勅諚之趣難有事に候。天下人心一新洗、不堪恐悅候」。原文
勅諚の趣旨はありがたい、天下の人心は洗い直され、恐悦に堪えない、という意味だ。原文
京都側の凱歌と称すべきものであろう、と蘇峰は言う。原文原文
主と従
京都側の意見は明快である。原文
条約は調印反対、養君(将軍のあととり)は一橋推薦。原文
九条関白とその一味は、底意では条約調印と紀州擁立を持っていただろうが、公然と持ち出せなかった。原文
条約調印に最も熱心に反対されたのは孝明天皇ご自身であり、関白が賛成を強いれば至尊と正面衝突する危険を冒すことになるからだ、と蘇峰は説く。原文原文
世子(跡継ぎ)問題は、京都では条約ほど重くは見られていなかった。原文
それでも家定が病弱で聡明ならざるという評判は聞こえていた。原文
将軍の代理者、やがて相続者となる者に賢明・人望・年長の三資格が要ることは、京都でも認めざるを得なかっただろう。原文原文
堀田自身はどうだったか。原文
井伊一派には徳川慶福を不可とせず、松平慶永一派には徳川慶喜を不可とせずという態度を示していた。原文
善く言えば白紙、悪く言えば無定見だった、と蘇峰は言う。原文
だが勅許という当初の目算が外れて徒手で帰る道中、彼の胸中には一つの決心と一つの提案が描かれたはずだ。原文
ハリスとの前約は取り消せないから、勅許を待たずに調印すること。原文
川路聖謨、特に岩瀬忠震の意見がそれであり、在京六十日の経験が堀田をそこへ押しやったのだろう、と蘇峰は推す。原文原文
もっともその決心が固かったかは保証の限りでない。原文
万障を排して初一念を貫く性格ではなかったからだ、と蘇峰は付け加える。原文原文
三百年来の旧慣を保持したいと願い、ただ周囲の事情やむを得ず、わが軍備が整わず外国との衝突を避けるためには条約調印も致し方なし、と観念したにすぎない。原文
だから彼を心からの開国論者と見るのは本意ではなく、そういう賛評は当人には「難有迷惑」だろう、と蘇峰は言う。原文原文
堀田は条約が主で世子が従。原文
井伊は世子が主で条約が従。原文
どんな面倒をも切り抜けて目的を達しようと焦る松平慶永と、井伊はちょうど好一対の立場にあった、と蘇峰は対比する。原文原文
埋木舎の人
その井伊直弼とは、どういう出自の人か。原文
大名の庶子は、養子に行くか、出家するか、さもなければ捨扶持で惨めに暮らすほかなかった。原文
直弼は養子の口を探すことに熱心だったが、思うようにはいかなかった。原文
ついに沈淪のほかなしと諦め、自分の住まいを埋木舎と名づけたほどだった、と蘇峰は記す。原文原文
ところが好運が回ってくる。原文
長兄の準養子であった仲兄が逝き、その跡を継ぎ、さらに長兄の跡を継いだ。原文
西三十三国の旗頭、歴代京都守衛、溜間詰、時には大老(幕府の最高職)を勤めるべき彦根城主の当代となった。原文
嘉永三年十一月、三十六歳。原文
血気まさに剛の時節である。原文原文
彼がどんな大望をもって世に出たかは誰も知らない、と蘇峰は言う。原文
ただ少なくとも、骨堅く皮厚く、我慢と強情の持主として出てきたことは間違いない。原文
それが天性か、環境が第二の天性にしたのかは詮議の限りでない。原文
それでも冷飯時代の鬱憤を大名時代に晴らそうとしたのは、決して不思議ではあるまい、というのが蘇峰の見方である。原文原文
急湍の孤舟
井伊直弼は今日に至るまで毀誉褒貶の焦点だ、と蘇峰は書く。原文
敵は、承久の故事を繰り返しかねない大奸物、違勅の大罪人、天下の志士を屠った大悪漢と呼ぶ。原文
蘇峰はどちらにも与しない。
それほどの善人でもなければ悪党でもなく、それほどの経世家でもなければ奸邪の小人でもない、というのである。原文原文
大政治家なら、善い意味でも悪い意味でも、もう少し違う型の政治をしたはずだ。原文
ところが実際は策もなく略もなく、一気に平押しに押していっただけだった。原文
その施為を一言で評すれば、急流に乗った孤舟が水勢の誘うままに舟もろとも滝の壺へ落ち込んだようなものだ、という。原文
勇気と言えば言えるが、むしろ目先の見えない「狂盲的所作」、つまり闇の中を突き進む振舞いと呼ぶのが適当かもしれない、と蘇峰は書く。原文原文
ただし動機まで奸悪だと言うのは酷評だろう、と蘇峰は留保する。原文
大老としての執政期間は安政五年四月から万延元年三月まで、一年十か月にすぎない。原文
その短い間に幕府瓦解の気運を促進したことは前後無比であり、その意味では彼を維新開国の功臣と呼んでも不可はあるまい、と蘇峰は結ぶ。原文原文
もう一度、蕨駅に戻ろう。原文
京都側からは、それを一つに結ぶ細い針線がすでに見えていたのかもしれない。
だがその針線の先にいるのが、埋木舎の人であるとは、堀田は思っていなかっただろう。原文
神ならぬ身の堀田は、井伊のためにやがて自らの失墜が来ることを夢にも想い及ばなかった、と蘇峰は書いている。原文
滝の壺へ落ちる舟に、閣老はまだ気づかずに乗り込んでいた、とも読めるのではないだろうか。原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』民友社、1935年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1223976 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻2』PID 1046669 |
| 日付・人名 | 本文の日付 3 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 11 名のうち 10 名が『維新史料綱要 巻2』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
