阿部正弘の辞表 ―― 安政元年四月、頭痛と眩暈の届書

あらまし

安政元年(1854年)4月、幕府の老中首座・阿部正弘は職を辞そうとした。10日、彼は登城しなかった。同じ老中で海を守る係も務める牧野忠雅あてに、頭が痛み目がまわって出仕できないという届け出を送る。その紙には、老中の役を解いてほしいという願い書が挟まれていた。

願い書の日付は2月26日。アメリカ船が下田を去ったら出すつもりが、船は静かなままで日ばかり過ぎた、と本人が事情を書いている。中身は、重い役を与えられ何度も恩賞を受けた礼から始まり、外国船のことで心配をかけた詫びへと続く。弘化元年にオランダの使節船が長崎へ来た頃から、外国船は見えていた。それなのに海岸の守りを整えられなかった責めは、老中の筆頭である自分にあると述べる。嘉永5年に加えられた1万石を返上したいと申し出た。役を解かれたうえで海の守りの仕事を命じられれば有り難い、とも添えている。

これが額面どおりの責任感から出たものか、吟味が要ると徳富蘇峰は見る。『安政紀事』によれば、老中の松平乗全・松平忠固らが徳川斉昭を強く嫌っていた。内藤駿河守の働きかけで江戸城に詰める大名と結び、井伊直弼らが応じたという。将軍あての書は側近の本郷丹後守がわざと間違えたふりをして阿部正弘に渡し、そのまま握りつぶされた。藤田東湖の話の書き取りはさらに露骨である。井伊直弼が徳川斉昭と阿部正弘を退けて自ら大老に座り、跡に松平斉民を据える相談をしていた、と伝える。

その松平乗全が、辞意を翻させようと動いた一人だった。備えの不足は老中一同で決めたことだから一人の落ち度ではない、明日にも出てほしい。そう説いたことが、斎藤貞兵衛の書き留めとして『懐旧紀事』に残る。将軍徳川家定も驚き、時勢のせいで責めを引くには及ばない、今辞められては自分が困ると述べた。かつて徳川家慶が若年寄を使者に立てて出勤させた例まで持ち出される。

ちょうどこの日、京都の御所が6日に焼けたという急報が届いた。老中たちは口をそろえて出仕を促し、徳川斉昭も強く引き止め、牧野忠雅も同じく引きこもって待つ。前日の9日には、備えが整わぬゆえ穏やかに済ませたと認める布告が出ている。同じ日、井伊直弼へ京都の守りを厚くせよとの命も下った。10日間の終わりに、阿部正弘は御所の造営の総責任者を命じられて涙を流した。

この記事からは、辞表をめぐる10日間の動きが、『懐旧紀事』と『安政紀事』、そして蘇峰の見立てからたどれる。

目次

阿部正弘の辞任届

安政元年(1854年)四月十日。原文
老中(幕府の重臣)首座の阿部正弘あべまさひろは、登城(江戸城に出仕すること)しなかった。原文
同列で海防掛(海防担当役)でもある牧野忠雅まきのただまさあてに、短い届書を出す。原文
頭が痛み目がまわって難儀だ、押して出ようとしても登城できない、という断りである。原文
用の多い折に何度も引きこもって恐縮だ、とも添えた。原文原文

原文『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』第13章 NDL コマ 209

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その届書に、もう一通が挟んであった。原文
内願書。原文
老中の役を免じてほしいという願いである。原文
これを出したうえで、阿部正弘は謹慎して罷免を待つことにした、と徳富蘇峰は記す。原文原文

書面の中で、彼は出しそびれた事情を説明している。原文
アメリカ船が下田を退帆したら早々に出すつもりでいた。原文
ところが船はいたって平穏で、異変も起こりそうにない。原文
ただ日を重ねるばかりで、いつ退帆するかも分からない。原文原文

二月二十六日の書面

添えられた内願書には、二月二十六日の日付があった。原文
以前に見せた書面をそのまま出したのだ、と本人が断っている。原文原文

中身は、まず恩の話から始まる。原文
思いもよらぬ重い役を仰せつけられ、格別の勤功もないのにたびたび莫大の恩賞を受けた。原文
ありがたい仕合せだ、と。原文
そのうえで、異国船のことで両上様に未曾有の心配をかけたことを詫びる。原文原文

だが次が本題である。原文
異国船の渡来は、昨今にわかに分かった話ではない。原文
弘化元年にオランダの使節船が長崎へ来て、その頃から外国船がしだいに見えるようになった。原文
であれば武備を整え、海岸防禦を行き届かせておくべきだった。原文
それができていなかった。
その場しのぎの処置とはいえ、国法はしだいに崩れ、国辱となった。原文
その責めを、彼は自分に引く。原文
「各様之御筆頭に罷在候得ば、全私不行届之故」。原文
老中の筆頭にいる以上、すべて自分の行き届かなさのせいだ、と。原文原文

このまま職に留まれば諸藩に対して面目を失い、幕府の処置までが手ぬるく見える。原文
そして、嘉永五年に加増された一万石(米の収穫量で表す領地の大きさの単位)をそのまま頂戴していては心底が安んじない、寸志までに差し上げたい、と返上を申し出た。原文
さらにひとこと添える。
役を免じられたうえで、身分相応の海防御用を命じられるなら誠にありがたい、と。原文原文

溜間の風向き

この内願書は、書かれた通りの単純な責任観念から出たものだったのか。原文
阿部正弘は政治家だ、と蘇峰は書く。原文
多少の吟味が要るだろう、と。原文原文

『安政紀事』が伝えるところを、蘇峰は引く。原文
この頃、老中の松平乗全まつだいらのりやす・松平忠固まつだいらただかたらが徒党を組み、徳川斉昭とくがわなりあきをひどく忌み嫌っていた。原文
内藤駿河守が奔走して溜詰の諸侯(大名たち)に結び、井伊直弼いいなおすけらがこれに応じた。原文
徳川斉昭の登営は国家の利ではないとして、藤堂和泉守とともに将軍への書をしたためた。原文
その書は側衆(将軍の側近)の本郷丹後守に託された。原文
本郷丹後守は誤ったふりをして、これを阿部正弘に渡してしまう。原文
阿部正弘は受け取ったまま出さなかった。原文
事はそれきりになった。原文
松平忠固・松平乗全が井伊直弼に結んだのはこれが起こりであり、本郷丹後守が井伊直弼に憎まれる始めもここだった、と『安政紀事』は続ける。原文原文

井伊直弼は庶子で、兄直亮の養いとなって世子(跡継ぎ)となり、嘉永三年十一月に封を継いだ。原文
世襲の溜詰である。原文
その意は、老中らに迎合して水戸を排し、元老の職を得ることにあった。原文
あわせて、先祖以来の京都守護の旧規に復そうとも謀っていた。原文原文

藤田東湖ふじたとうこの談話筆記はもっと露骨だ。原文
井伊直弼は徳川斉昭と阿部正弘を退け、自分が大老(幕府の最高職)に座り、藤堂を応援に立て、跡へ津山藩主の松平斉民まつだいらなりたみを据える密議をしていた。原文
謀主は内藤駿河守。原文
井伊直弼が呈書をしたためて将軍の直覧に入れるはずが、本郷丹後守がとぼけて阿部正弘に渡し、阿部正弘は何の気なしに披見して、将軍の耳に達する前に取り捨てた──。原文
どこかに悪い気流が浮動していたことは間違いあるまい、と蘇峰は言う。原文原文

原文『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』第13章 NDL コマ 214

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親戚からの使い

その松平乗全が、阿部正弘の辞意を翻させようと動いた一人である。原文
「御備御充実に無之は、伊勢守様御一人之御儀には無之、御一同御評議の上之事故」。原文
備えが充実していないのは阿部正弘ひとりの話ではない、老中一同が評議のうえでしたことだ、その人ひとりの行き届かなさとは言えない──そう説いた。原文
そして、明日にでも出勤してもらいたい、と。原文
斎藤貞兵衛の手控えが『懐旧紀事』に残る。原文原文

原文『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』第13章 NDL コマ 212

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松平乗全は阿部正弘と親戚である。原文
まさか排斥の一党ではあるまい、とも見える。原文
ただし松平乗全と松平忠固は、安政二年八月に老中を免じられた。原文
徳川斉昭は安政二年に、この二人は必ず免じねばならぬと論じている。原文
井伊直弼が最も多く書信を送った相手が松平乗全だった、という話もある。原文
排斥の陰謀者のうちに数えるべきに似ている、とも言えようか──と蘇峰は含みを残す。原文原文

辞表を出したその日、阿部正弘の家臣は松平乗全の招きでその邸へ行き、内意を受けて帰った。原文
そのとき阿部正弘は、きわめて冷淡な態度で応じたという。原文原文

「おれが困るから」

将軍徳川家定とくがわいえさだは、きわめて凡庸な主だった、と蘇峰は書く。原文
それでも、阿部正弘が最も信頼すべき者であることは知っていた。原文原文

原文『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』第13章 NDL コマ 213

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松平乗全が辞表の一件を言上する。原文
徳川家定は驚いた。原文
書面にある恐懼・謹慎とはどういうことか、何か仔細があるのか、と尋ねる。原文
松平乗全は、外国の処置に関わることだと答えた。原文
すると徳川家定は言う。原文
「夫は伊勢守一人の不行届と申には無之」──それは阿部正弘ひとりの落ち度ではない、時勢がやむを得なかったのだから責めを引くには及ばない。原文
続けて、「おれが困るから」。原文
今辞められては自分がひどく困る、同列でよく申し含めて、不快でも押して早々に出勤するよう取り計らえ、と。原文
それでも承知しないなら若年寄(老中の補佐役)を上使に立ててはどうか、という話まで出た。原文
かつて水野忠邦の再任の際、阿部正弘が引きこもったとき、徳川家慶とくがわいえよしは若年寄を上使として強いて出勤させている。原文
前例があった。原文原文

禁闕の変と出勤の請

ちょうどこの日、京都所司代(京都に置かれた幕府の代表)から飛報が届いた。原文
去る六日、皇宮に火が出た。原文
主上は下加茂へ遷られた。原文
一同、愕然とした。原文
これで辞職はいよいよ難しくなる。原文
翌日には詳報が重ねて届いた。原文
老中たちは口をそろえて出仕を促した。原文
禁闕に変があり、上下が恐れ慄いているこの時に、臣子として勝手に退く時ではあるまい、と。原文
徳川斉昭も切に止めた。原文
牧野忠雅は、阿部正弘がそのまま引きこもるなら自分もそのままでは済まぬとして、同じく引きこもっていた。原文原文

阿部正弘の返答は、斎藤貞兵衛の口上で伝えられた。原文
上意の趣は心魂に徹し、恐れ入りありがたい。原文
明日から出勤する。原文
ただし書面で申し上げた件と改革の筋は、出勤のうえで相談させてほしい――。原文
幕政改革を条件にしての出勤だったことは、これで分明だ、と蘇峰は書く。原文
牧野忠雅も続いた。原文
出勤した阿部正弘に、幕府は禁裏造営の総裁を命じた。原文
阿部正弘は感泣して退いた。原文
老中の首席にいて国法をゆるめた責めは逃れられぬのに、罪を問われぬどころかこの大命を受けた、努力しないでいられようか、と。原文
以後、彼は二度と罷免を請わなかった。原文原文

原文『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』第13章 NDL コマ 216

正弘感泣して退きて曰く『不肖老中の首席に居り、外國に對して國法を弛むるの責逃るべからず。然るに今其罪を問はれざるのみならず、却て此大命を受く。豈に敢て努力して事に從はざるを得んや』と

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出勤を請ける書面には、こうある。原文
先だってから胸痛の実病で難儀し、あれこれ紛れて延引した。原文
台命があってはそむきがたく、恐れ入り、上意に甘えて出勤を請けた。原文
そして一行、今後の形勢はどうなるだろうか、と。原文
追伸には、京都の炎上は驚き入る次第、それにつけても莫大の入用がかかる、財政の繰り合わせを思うと寝食が安んじない、どういう時節かと長歎息するばかりだ、と書いた。原文原文

原文『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』第13章 NDL コマ 215

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四月九日の触書

辞表の前日、四月九日。原文
海防掛月番の牧野忠雅の名で、大小目付(監察役)に書付(文書)が渡されている。原文
今度渡来のアメリカ船は内海を退帆した。原文
滞船中は勝手気ままな振舞いもあり、思わぬ兵端を開くことも計りがたかった。原文
それぞれに固めを命じたが、船軍の備えがまだ整わないので、やむなく穏便の処置とした。原文
漂流民をいたわること、往来の折に薪水(たきぎと水)・食料・石炭など船中に欠けた品を与えること。原文
これを聞き届けた。
そして結び。
倹約を守り、陸海の軍事にいっそう励め、という布告である。原文原文

一面から見ればいかにも武備振興のようだが、その実は幕府が優柔不断の本色をさらしたものだ、と蘇峰は断じる。原文
開国か鎖国かに確たる定見がない証拠だ、と。原文
腹では開港を知り、口では攘夷(外国を追い払うこと)を言う。原文
攘夷の不可能を知りつつ所信を公言するのを憚り、外は世間並みの言葉でつくろう。原文
それで自縄自縛に陥った。原文
鈴を盗んで耳を掩うようなもので、その隙を倒幕の策士に乗ぜられた──蘇峰はそう見る。原文原文

当時のある人の書簡(手紙)も引かれている。原文
アメリカ船が滞留中は諸役人みな色を失い、生きた心地もない様子だったが、三日になってしだいに顔色も直り人心地もついた。原文
その臆病は言語道断だ。原文
徳川斉昭ひとりがどれほど思い込んでも、営中があの様子では致し方あるまい──。原文
まさにその通りだったろう、と蘇峰は言う。原文原文

原文『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』第13章 NDL コマ 217

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無くてはならぬ一人男

当時の役人には彼が薦めた者が多く、幕府にもっとも人物が多いと称された。原文
その彼が職を辞そうとすると、誰もが去るのを惜しみ、懇ろに引き留めた。原文
賢明な阿部正弘は、ひとまず辞表を出して、自分が本当に幕閣(幕府の上層部)を去りたいのか否かはしばらく問わず、上下に対する自己の信任投票を試みる必要を感じた。原文
それでこの挙に出たと見るべきだろう、というのである。原文
もし信任投票であったなら、彼は正しく目的を達した。原文
どれほど陰謀が周囲に企てられていようと、当時の彼は「無くてはならぬ一人男」だったからだ。原文
辞表一件によって、その地位はむしろいよいよ固くなった、と蘇峰は結ぶ。原文原文

同じ四月九日、井伊直弼にも命令書が下っている。原文
近ごろ異国船がたびたび近海へ渡来するので内海の警衛を改革してきたが、江戸近海だけではない、京都表の警衛の筋もいよいよ大切に思召される。原文
その方の家は前々から京都の不慮の守護を心得てきた家柄であるから、いっそう手厚く心得よ、という。原文
羽田・大森についての指図が、そのあとに続く。原文原文

頭痛と眩暈で始まった十日間の終わりに、阿部正弘は禁裏造営(御所の造営)の総裁を命じられて感泣した。原文
同じ月、彦根の当主は京都の守りを厚くせよと命じられていた。原文
その二つの命令が、四年後にどこで交わることになるのか。原文
あの春、届書に「頭痛眩暈」と書いた男は、どこまで見ていたのだろう。原文原文

原文『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』第13章 NDL コマ 218

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この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』民友社、1935年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1223901
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1937年 PID 1046665
日付・人名本文の日付 6 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 11 名のうち 9 名が『維新史料綱要 巻1』にも現れます。

本記事は『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物井伊直弼徳川家定徳川家慶徳川斉昭松平乗全松平忠固松平斉民牧野忠雅藤田東湖阿部正弘年1854安政