あらまし
嘉永6年(1853年)6月3日、浦賀沖に異国船4隻が現れました。応対の矢面に立ったのは、浦賀奉行所の与力、香山栄左衛門です。大筒の稽古を終えたところで漁師の知らせを受け、香山はそのまま船で沖へ出ました。
先に乗りつけたのは、与力の中島三郎助たちと、通訳の堀達之助・立石得十郎。オランダ語では通じず、英語でようやく話が運びます。相手は北アメリカ合衆国の船で、大統領から日本の君主への手紙を持っており、位の高い者でなければ会わないと言いました。長崎へ回るよう求めても、江戸で高い位の者に渡せと命じられていると拒まれます。知らせはその夜のうちに江戸の老中阿部正弘へ届き、4隻には江戸じゅうを震え上がらせるだけの力があった、と蘇峰は書いています。
香山はのちの安政6年正月、この応接の始末を老中に差し出しました。蘇峰が日本側でもっとも詳しい記録と評する報告です。書き出しは前年の秋、アメリカの軍艦が来年来るといううわさから始まります。在府の奉行戸田氏栄が阿部に内々に尋ねると、答えは実際には来ないという内命でした。弘化元年にはオランダ国王の忠告書もあったのだから、幕府の怠りは免れない、と蘇峰は断じています。
6月4日の朝、香山は旗艦へ向かい、国の決まりと自分の立場を説きました。自分から奉行と名乗ってはいないが、相手にそう信じさせるよう仕向けたのだろう、と蘇峰は見ています。相手が戦の構えを整えたと見た香山は、江戸へ伺う日数を求め、往復3、4日という期限を示されます。殺気を顔にあらわした相手に、遠い海を越えて来た使いの志をむだにする扱いはあるまい、と諭しました。
江戸へ走った香山は、在府の浦賀奉行井戸銕太郎に食い違いのわけを問いました。来航の知らせは前年のうちに届いていたと聞かされ、何時間も涙を流したと書いています。蘇峰は、ここに幕府の秘密主義のほころびを見ます。6日には測量の船を引き戻させ、7日に手紙を受け取る指示が届き、9日に久里浜の陣屋で、言葉のやり取りもないまま受け渡しが済みました。
その後も4隻は金沢や小柴の沖、本牧の方へ動き、香山は小舟の中で眠れぬ夜を過ごします。11日には4隻とも引き戻すよう強く掛け合い、奉行の計らいで織物や団扇、鶏や卵などが贈られました。12日の朝、4隻は約束どおり浦賀を離れていきました。
浦賀での最初の応対から4隻が去るまでを、香山栄左衛門が安政6年正月に老中へ出した報告と、蘇峰の評から追うことができます。
久里浜の町打場
嘉永六年(1853年)六月三日、浦賀から二十五、六町離れた久里浜村。原文
大筒の町打稽古を終えた与力(奉行の下で働く役人)たちが、昼飯のあとの休息をとっていた。原文
そこへ城ヶ島の漁師四人が駆け込む。原文
沖合で漁をしていたら、異国船四艘が松輪崎の内へ乗り入れるのを見た、という注進である。原文
浦賀奉行(幕府が要地に置いた長官)与力の香山栄左衛門は、その足で浦賀へ引き返し、四番船(見張りの船)に乗った。原文原文
先に出たのは一番船。原文
浦賀奉行与力の中島三郎助、近藤良次、佐々倉桐太郎に、通詞(通訳)の堀達之助と立石得十郎が付き添う。原文
四艘は浦賀沖から鴨居村沖へ移って投錨していた。原文
通詞たちが中檣の旗を見て「主役之者乘組居候標章」と言う。原文
主将が乗っている印だ、というのである。原文
一行は蒸気船サスケハナに乗り付けた。原文
蘭語で呼びかけても通じない。原文
英語で尋ねてようやく、蘭語のわかるポートマンという者が出た。原文
どこの国の船で、どんな用でここへ来たのか、と問う。原文
答えは、北アメリカ合衆国の船、大統領から日本国帝への書翰(手紙)を持っている、高官でなければ応接できない、というもの。原文
一行は、高官が異国船へ乗り込んだことは一切ない、次官でもよいから会いたい、と返す。原文
ポートマンは一度船内へ入り、しばらくして戻った。原文原文
船室で会ったのは副官のコンティ大尉である。原文
長崎へ回れと言えば、長崎へは決して行かぬ、江戸で高官に渡せという命を受けている、と返す。原文
船名、将官の姓名、乗組人数を問えば「軍艦に候へば、夫等之尋には及び申間敷候」。原文原文
三郞助日本之國法にて、是迄度々異國船も渡來致し候へども、高官之者、異國船へ乘組致應接候儀、一切無之、若高官之者面會難相成候はゞ、次官之者にても苦しからず面接いたし度
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く夜半の江戸
浦賀からは、急ぎの注進が江戸へ送られた。
一通目は、城ヶ島沖に異国船四艘、井伊掃部頭・松平誠丸・松平下総守・松平肥後守の警備四家へ通達した、というもの。原文
早船で江戸へ届き、同夜十時過ぎ、在府の浦賀奉行井戸銕太郎のもとへ着く。原文
井戸は即刻、老中(幕府の重臣)阿部正弘の邸へ届けた。原文
阿部がこの報に接したのは三日の夜半だったろう、と蘇峰は推す。原文原文
二通目は、船の様子を記す。原文
二艘は大砲二十挺余、二艘は総体鉄張の蒸気船。原文
バッテイラ七、八艘も鉄張に見え、進退自在で応接の者を寄せ付けない。原文
相手は「泰然自若と罷在」、同様の軍艦が数艘来るとも言う。原文
泰然自若として、さらに軍艦が来ると告げた、というのである。原文原文
同日、浦賀奉行の用人(主人の家の事務を取り仕切る役)は警備四家の用人へ急便を出した。原文
異国船の近辺へみだりに船を寄せるな、寄せれば異変になると向こうが言っている、と。原文
四艘の艦船には、浦賀どころか江戸の上下を「嚇殺」するに十二分の威力があった、と蘇峰は書く。原文原文
風説書の冬
香山は安政六年正月、この応接の始末を追録して老中に差し出した。原文
日本側の記事としてもっとも詳しい、と蘇峰が評するのがこの上申書(上役に差し出す意見書)である。原文原文
その書き出しは、嘉永五年の秋に戻る。原文
来年三月、アメリカから石炭置場借用のため軍艦が来るという風説がもっぱらだった。原文
香山は浦賀在勤の奉行水野筑後守に実否を伺う。原文
奉行も心配するのみで虚実はわからない。原文
在府奉行の戸田氏栄が阿部正弘に内々伺うと、答えは、本当に来るわけではない、という内命だった。原文原文原文
十二月、水野が内々に風説書の写しを香山に見せた。原文
香山は、長崎奉行の見込みはともかく、来ないとは言い切れないと申し立て、万一の手筈を用意したいと求める。原文
浦賀は「御府內之海門咽喉之土地柄」で外国事務を扱う場所ではない。原文
江戸の喉元にあたる土地で、外交の場ではない。原文
来れば長崎へ回るよう諭す、という方針が書面で認められた。原文原文
三月、水野は長崎奉行へ転じ、戸田が浦賀在勤となる。原文
三月も四月も五月も、船影はない。原文
心配は「却て遠慮に過候事」のように思われてきた、と香山は書く。原文
取り越し苦労だったか、ということである。原文
それでも「今日か翌日かと相待候得共、夫と見るべき船形も相見不申」。原文
今日か明日かと待ったが、それらしい船は見えなかった。原文原文
三月も無事に相立、四月に入候ても、更に異國船渡來可仕樣子も無御座、五月も無滯相立候て是迄品々心配仕候義は、却て遠慮に過候事之樣に相成、初發御內命之通、渡來不仕事にも可有之哉
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開くここで蘇峰は、幕府の側に厳しい。原文
足かけ十年前、弘化元年七月にはオランダ国王の忠告書もあった。原文
考慮する余地は十二分にあったのだから、幕府当局者の怠慢は免れぬ責任だ、と蘇峰は断じる。原文原文
「殺気面に相顕れ」
六月四日早朝。原文
香山は堀と立石を連れて旗艦へ向かった。原文
上官でなければ応接しないと言われ、国法と応接官の立場を説く。原文
香山は自ら奉行と名乗ってはいないが、米人にそう信じさせるよう仕向けたのだろう、と蘇峰は按じる。原文原文
米側は、国王の命がないから長崎へは回れない、と言う。原文原文原文
香山は旗艦の形勢と人気を見た。原文
「非常之體を相備へ候」。原文
戦の構えを整えている、と見て取った。
このまま受け取らねば穏便に済まぬと見切り、江戸へ伺うので往復に日数がかかると告げる。原文
米側は往復三、四日を限り、可否を聞きたい、と返した。原文
江戸に伺っても受け取らぬなら「使命をあやまり候耻辱雪ぐべきなし」、浦賀で余儀ない場合に至る。原文
ただし用があれば白旗を立てて来い、鉄砲は撃たない、と。原文原文
迚も此儘書翰御受取無之ては、平穩之取計相成兼候段見切候に付何れ受取方之儀は、江戶表え相伺候樣可致、左候得ば往返日數彼是急速之事には不參段申聞候處
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く将官はもちろん居合わせた異人一同「殺氣面に相顯れ」。原文
殺気が顔に現れていた、と香山は書く。原文
香山はそこで、万里の波濤を凌いで来た使節の志を空しくするような不仁の処置はあるまい、穏やかに都府の下知を待て、と諭した。原文
この押し問答は、提督(艦隊司令官)側から言えば見事に成功した、と蘇峰は見る。原文原文
小川町の落涙
香山は同心(下級役人)組頭(組の長)の福西源兵衛を連れ、久里浜の役船で江戸へ発った。原文
小川町の在府奉行井戸銕太郎の役所に着き、六月五日午後三時頃、退出してきた井戸に会う。原文
応接の次第を逐一述べたあと、香山は問う。原文
米側は、浦賀へ来ることは昨年中に政府へ通達済みだ、長崎へ回れとは「以之外之事」だと、殺気を含んで言っていた。原文
しかし昨年風説書の写しが下がった頃、幕府は来ないとまで内々に仰せ渡した。原文
「天地懸隔之相違如何之譯に有之候哉」。原文
天と地ほどの食い違いは、どういうわけか。原文原文
井戸は答えた。原文
実は昨年中、その旨は申し越されていた、と。原文
香山は書く。原文
それなら戸田にも仰せ渡しておけば、最初からこんな行き違いは起きなかった。原文
秘密になさっていたとは「今更何共可申上樣無御座、嘆息之限り」。原文
今となっては何とも申し上げようがなく、嘆息するばかりだ、と。原文
「於私落淚數刻に及び候」。原文
私は数刻のあいだ涙を流した、と。原文
蘇峰はここに幕府の秘密政策の馬脚を見る。原文
香山は陸路を終夜走り、六日未明に浦賀へ着いた。原文原文
三尺の箱
六日、休む間もなく。原文
蒸気船一艘が内海へ乗り入れたという。原文
与力近藤良次が通詞を連れて向かうが、書翰受取のほかは一切応接しないと乗り込みを拒まれて戻る。原文
香山が旗艦へ行きアダムスに質すと、書翰を受け取らぬ場合には内海へ乗り込んで騒動に及ぶから、海底の深浅を測量させている、と言う。原文
受取の可否も聞かぬうちから国法を破るのか、と香山は諭し、七ツ時頃、旗艦からの合図で測量船は浦賀湊沖の元の繋留場へ戻った。原文原文
應接掛與力近藤良次え被申付候に付、同人通詞召連罷越候處、書翰受取渡一條之外、一切應接不致旨申斷、船中え爲乘組不申候に付、無餘儀引取候段申立
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く七日四ツ時過ぎ、書翰を受け取るとの下知が届く。原文
八日に井戸が浦賀に着き、九日に久里浜で受け取る、という段取り。原文
旗艦に伝えると、米側は政府からの添書があるので江戸へ届け返翰(返事の手紙)を頂戴したい、と言い出す。原文
受取が決まってから言い出すのは違約ではないか、と香山は押し返した。原文
これより「追々枝葉の事のみ申出し」、すぐ一戦に及んで勝敗を決しよう、江戸へ行って老中に直談する、などの難題が続いたと香山は書く。原文原文
受取の官人はどんな人か、とも問われた。原文
米側の使節は「國王之次なるもの」、国王に次ぐ大官だから日本でも同様の官人を、というのである。原文
江戸から大官が来るから安心せよ、と香山は答えた。原文原文
異人たちは「大に安心いたし候樣子」で、国王の書翰を見てくれと箱を持ち出した。原文
長さ三尺ほど、幅二尺ほど。原文
外面はチャンで湿気を覆い、捻釘で固めてある。原文
香山はすぐ元のとおり封をさせた。原文
この時、祝砲三発が放たれたという。原文原文
ただ香山も旗艦で馳走になり、盛んに洋酒を飲んだことだけは上申書に書いていない、と蘇峰は付け加える。原文原文
九日朝五ツ時頃。原文
脚船十三艘、およそ三百人。原文
四ツ時頃に上陸し、陣屋では「以心傳心之受取渡」で済んだ。原文
言葉のやり取りなく受け渡しが終わった、というのである。原文
書翰を守る銃隊の行装は、深地へ引き入れられ生け捕られることを用心する体で「實に敵地に入候心地」に見えた、と香山は書く。原文原文
眠られぬ小艇
同じ九日の夕刻、風波が荒くなり、四艘は金沢の乙艫や小柴沖へ移った。原文
香山が質すと、浦賀沖では繋留が難しい、来春返翰を受け取りに来るときは大形の船二艘を増すので、その船掛り場を探しているのだと言う。原文
内海への乗り入れは国法に厳しいと諭したものの、強く止めれば書翰の件で疑念を生むかもしれぬと香山は案じた。原文
そして夜九ツ時過ぎ、浦賀へ戻った。原文原文
十日の早朝、小柴沖へ行くと旗艦の旗印が違っている。原文
将官も副将も、別の蒸気船で本牧辺へ出ていた。原文
迅速の蒸気仕掛けでは、小艇では追いつけない。原文
本牧の内手まで入られては御府内が騒ぐと気づき、近藤良次を使って、本牧警備の細川越中守家来と海防掛(海防担当役)へ届けを出させた。原文
その夜は金沢沖の夏島の陰に一泊した。原文
下役も水主も疲れて熟睡したが、香山はそうではない。原文
「私は眠らんとして眠られず」。原文
どう応接して引き戻すか、終夜小艇の中で心を痛め、未明に一同を呼び起こした。原文
香山はいたずらに力を弄ばず、「拔かぬ太刀の功名」を遂げた、と蘇峰は評する。原文原文
十一日、二艘が上総の方へ走る。原文
もう一日測量したいと言うのを、香山は四艘とも引き戻せと「手强く申談」じた。原文
奉行の取り計らいで、和錦五巻、団扇四十本、煙管五十本、椀五十、鶏百五十羽、鶏卵千を送る。原文
水主たちがもらった牛肉やパンともども、十二日の退帆後、井戸の考えで番所前にて悉く焼き捨てられた。原文原文
十二日、約束の刻限を過ぎても船は動かない。原文
もう一度諭しに行けと戸田が言う。原文
香山は、滞船中に一事も違変はなかった、今日の退帆は固く約束したから必ず出る、他の者に命じてほしい、と答えた。原文
五ツ半時頃、四艘は退帆した。原文原文
この上申書には「手前味噌の嫌」はあるが大体要領を得ている、と蘇峰は評する。原文原文
その与力は、奉行の名を借りて異船の前に立ち続けた。原文原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 彼理来航及其当時』民友社、1929年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 3431222 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1937年 PID 1046665 |
| 日付・人名 | 本文の日付 9 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 8 名のうち 8 名が『維新史料綱要 巻1』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 彼理来航及其当時』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
