あらまし
安政6年(1859年)正月9日の夜10時ごろ、淀の民家に身を隠していた前内大臣の三条実万のもとへ、家臣の入江駿河守が駆けつけました。運んできたのは、鷹司父子が髪を下ろして出家するという報せ。あとつぎの三条実美は、疑いを避けてわざと自分では来ませんでした。
井伊側から見れば、天皇から取るべきものはすでに取っていました。老中の間部詮勝は格別の思し召しとして本物の太刀を賜り、これ以上の好都合はなかったと蘇峰は見ています。次は天皇の周辺を一掃する番です。長野主膳らは罪を正して本人に認めさせるべきだと考え、間部もそれを受け入れるほかなかったといいます。
正議派の処士や公卿の家臣は次々と江戸へ送られていました。残るのは朝廷の正議派の公卿だけ。正月3日の実万の日記には、与力が書類を調べに来たことや、徳川斉昭が鷹司家に隠れているといううわさで武家の者が押しかけたことが書かれています。斉昭は前年7月5日から江戸駒込の屋敷に閉じ込められていて、京都にいるはずはありません。それでもこうしたうわさが流れること自体が人々の不安を示す、と蘇峰は書きます。
9日夜の入江の話では、実美が鷹司家に確かめると報せは間違いなく、近衛忠熙が関白に尋ねると、早く願い出たほうがよいと勧められたといいます。実万は入江に、翌朝さっそく関白へ申し入れ、近衛・鷹司と文面をそろえて願書を出すよう言い含めました。近衛家の老女村岡が役所に留め置かれ、関白が取り成しを断ったと聞くと、実万はその心根を不忠の極みと日記に書き付けています。
実万自身は、所司代側のほのめかしを受けて、前年末には出家を決めていました。正月10日、4通の願書が出ます。自分から進んで出した形をとりながら、実際は井伊側の注文に応じたものだった、と蘇峰は書いています。
天皇は九条関白への手紙で、彼らに将軍への異心はない、早く疑いを解いて出仕させよと求めました。しかし相談を受けた間部は、願いどおり聞き届けるべきだという上申書を出し、江戸からも病気を理由に辞めさせよと迫ります。九条も酒井も井伊側の筋書きを実行する役にすぎず、本当の張本は井伊直弼と長野主膳だった、と蘇峰は結論しています。
淀に隠れた三条実万が出家を願い出るまでの数日を、実万の幽居日記と、天皇が九条関白に与えた手紙、間部の上申書、宇津木六之丞の書状からたどれます。
正月九日、亥の刻
安政六年(1859年)正月九日の夜十時ごろ。原文
淀の民家の戸を叩く者がいた。原文
主は前内大臣の三条実万。原文
前年十一月十一日からこの家に身を隠している。原文
入って来たのは家臣の入江駿河守。原文
「依有急事所来」、急な用があって来た、と告げた。原文原文
実万の嗣子(跡継ぎ)である少将三条実美は、本来なら自分で来るべきところだった。原文
だが「避嫌疑延引」、嫌疑を避けてわざと来なかった。原文
この一句から、その夜の慌ただしさが思いやられる、と蘇峰は書く。原文原文
入江が運んできたのは、鷹司父子が髪を下ろすという報せだった。原文原文
真の御太刀
老中(幕府の重臣)の間部詮勝は諸事を済ませたうえで、恒例の拝領物のほかに「御格外之思召を以、真之御太刀御拝領」、格別の思し召しとして本物の太刀を賜った。原文原文
蘇峰はこれを、朝廷の許しを必要としていた井伊側にとって「此程仕合の事は無かつた」と見る。原文原文
主上からは取るべきものを取った。原文
次は主上の周辺を一掃する。原文
一掃そのものに異論はなかった、と蘇峰は記す。原文原文
ただし二つの意見があった。原文
長野主膳らは、引退は当然だが「正邪分明の為め」に罪を正さねばならぬ、自ら罪を認め、悔い改めた実を挙げる必要があると考えた。原文
間部は長野らの意見を容れるほかなかった、と蘇峰は伝えている。原文原文
処士はもとより、正議派公卿(朝廷の高官)の諸大夫や注意人物は、次々と竹輿で江戸へ送られていた。原文
残るのは堂上(朝廷の上級の貴族)の正議派だけ、と蘇峰は数える。原文原文
正月三日の実万の「幽居日記」。原文
与力(奉行の下で働く役人)が家内の書類を調べに来たが、かねて用意していたため文書を少々持ち帰っただけで済んだという。原文
諸大夫の丹羽は江戸へ下って水戸の人士と交わった一人で、吟味されるのはむしろ遅すぎたと蘇峰は言う。原文
同じく諸大夫の富田織部も帰京を届け出て、呼び出しを待つ身だった。原文原文
同じ日の日記には、奇妙な噂も書き留めてある。原文
徳川斉昭が鷹司家に逃げ隠れているという疑いで、武家の士が十四、五人、鷹司邸に押しかけ、隠せば踏み込んで捜索すると迫った。原文
家人は決してそのようなことはない、疑うなら家中を調べよと答え、士たちは引き上げたという。原文原文
斉昭は安政五年七月五日以来、江戸駒込の邸に閉じ込められている。原文
京都の鷹司邸にいるはずがない、と蘇峰は切って捨てる。原文
だがこうした噂が流れること自体、人心の恟々とした様子をうかがわせる、とも書く。原文原文
実万はその日、家中の文書がどこにあるかを案じ、鍵をかけて担い笥に納めてある、庫へ収めるべきかと思案した。原文
まことに苛酷な政治のはなはだしさは、恐ろしく、嘆かわしい、と日記は記す。原文原文
嫌疑を避けて、代わりに
九日夜、入江が語った話は込み入っていた。原文
鷹司父子の落飾を聞いた実美は驚き、入江を鷹司家へやって家司青木に確かめさせたところ、間違いなかった。原文原文
近衛忠熙が改めて関白(天皇を補佐する最高の官職)に聞くと、尋常の事なら辞職を止めるところだが、今回は事が事だから「早々被申出候方可然」、早く願い出たほうがよい、遅れれば関東から厳しい沙汰(通知・命令)が来るかもしれぬ、と勧めた。原文原文
忠熙は辞職の理由に「見込違之事等有之」、見込み違いがあったと書こうとした。原文
関白はそれでは具合が悪い、ただ病気としておけと諷した。原文原文
実美はこれらを自分で父に報じるつもりだったが、嫌疑のために入江を代わりにやった。原文
実万は入江に、明朝実美から関白へ家司をもって落飾(髪をおろして出家すること)の願いを申し入れること、先例どおり武家伝奏(朝廷と幕府の連絡役)へ願書を出すこと、近衛・鷹司の両公と文面を違えないことを言い含めた。原文
日記の注には「只今日之時勢不可論義理」、いまの時勢では道理を論じることはできない、とある。原文原文
もう一つ、入江は近衛家の老女(公家や武家に仕える上級の女中)村岡が町奉行(町の行政と裁判を担う役人)所へ呼び出された、と告げた。原文
水戸の留守居(藩の外部との連絡役)鵜飼の親族だという理由で、「男子同様留于役所」、男と同じように役所に留め置かれた。原文
近衛家は関白に取り成しを頼んだが、今度の事には口を出せぬと断られた。原文
実万は「関白之所存不忠之至、可憎可嘆」、関白の心根は不忠の極み、憎く嘆かわしい、と書き付けた。原文原文
願書四通と一通の宸翰
実万自身、落飾の決心は前年末にしていた。原文
所司代(京都に置かれた幕府の代表)側が冷泉為恭を使って、自ら進退を決めるようにと諷していたからである。原文
一族の人々に止められ、議奏(天皇の側近く仕える役)の正親町三条にも説かれて一度は思いとどまったが、両府(左大臣と右大臣)と太閤が決した以上、「可随両府之進退之外無之」、両府に従うしかない、と腹を据えた。原文原文
入江は九日夜、丑寅の間、午前二時から四時のあいだに京へ発った。原文原文
今夜(安政六年正月九日の夜)量不可遲滯之間、急申丑寅(午前二時-四時の間)之間發途
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く正月十日、四通の願書が出た。原文
自発的ではないが自発的の形式で、井伊側の注文に応じたものだ、と蘇峰は書く。原文原文
この事態が主上の心をどれほど痛ませたかは、九条関白に賜った宸翰を読めばわかる、と蘇峰は言う。原文
宸翰は、去年十二月晦日に「心中氷解」、わだかまりが解けたと返答した以上、関東と合体して夷族を遠ざけたい一心である、と始まる。原文
それなのに左右大臣と三条前内府が辞官(官職をやめること)落飾を願い出るとはどういうことか。原文
彼らは神州の瑕瑾を憂えたのであって、将軍に異心を挟む筋は一切ない。原文
「他事は打捨」、過ぎたことは置いて早く疑いを解き、大臣らを速やかに出仕させるよう関白が取り計らえ、と結ぶ。原文原文
公武合体を決めた以上、関東に隔意があるはずがない。原文
過去をして過去を葬らしめよ。原文
主上の思し召しはもっともだ、と蘇峰は記す。原文原文
間部の上申書と別紙四通
九条関白は一人では動けなかった。原文
酒井所司代を通じて間部に相談し、間部は上申書(上役に差し出す意見書)を出した。原文
自ら恐れ入って辞官落飾を願い出たのは「御殊勝之御儀」、殊勝なことだから、願いどおり聞き届けるのがよい、と。原文
正面から宸翰の趣旨に反対したものだ、と蘇峰は言う。原文原文
別紙四通は一人ずつの罪状だった。原文
鷹司政通は、夫人徳子が徳川斉昭の姉であること、小林民部を通じた水戸家来の内願を叡慮に事寄せて取り持ったこと、高橋兵部の「東武珍説書」を主上の目に入れたことを挙げられた。原文
三条実万は、水戸・越前の家来や浮浪の者の入説を聞き、勅使(天皇の使い)差向の議を「却て尤に被聞請」、かえってもっともだと聞き入れた、と書かれた。原文
勅使とは実万自身を江戸へ下らせ、将軍に直接勅命を伝えさせる案であり、越前とは安政五年三月、山内家の紹介で実万に面接した橋本左内を指す、と蘇峰は補う。原文原文
鵜飼幸吉が勅諚を江戸へ運び、駒込の斉昭に報じたとき、斉昭はむしろ驚き、当惑したではないか。原文
家来の仕事をすべて主人が知っていたとするのは「余りに臆断」だ、と蘇峰は書く。原文
井伊側の色眼鏡では、一切の悪謀は斉昭の一心から出たものと決めてかかっていた、と。原文原文
この筆法で行けば、至尊に対しても何か言わねばならぬ勢いになる。原文
京都の運動は上は至尊に始まり、下は処士に終わっていたからだ。原文原文
病気を理由に辞官を
主上はなお諸臣を庇った。原文
井伊側は承服せず、江戸から公文書で照会する段になった。原文原文
そのまま勤めさせては御所の取締りに関わるから、「銘々自身より、病気等之申立にて辞官、隠居(家督を譲って退くこと)等、被相願候上、願之通被仰出」、各自から病気を理由に辞官や隠居を願い出させ、願いどおりに仰せ出せ、と関白に内談せよという。原文
追書には、間部が「当時之機会を失ひ不申候様」、この機会を逃すなと言って来たこと、田安慶頼にも伺ったこと、まず御所限りの内沙汰とし、総体の吟味が決まれば表向きの沙汰もあり得ること、が記されていた。原文原文
この公文書に九条関白の意見を加えて案文ができた。原文
一条内大臣は三十日の出仕差止を、転任前後の差支えを理由に自身の遠慮引籠に。原文
二条斉敬は「元来心得違多端」、もともと心得違いが多いが、五十日の慎みを同じく遠慮に。原文
近衛大納言(朝廷の高い官位)は若年で「必竟名計之罪」、名ばかりの罪だからと引籠に。原文
万里小路前大納言は隠居を慎みに。原文
久我右大将は中途から改心し、いま御用に精勤しているからと、辞官を引籠に。原文
正親町三条中納言(朝廷の高い官位)は願いどおり辞官、と案文は続く。原文原文
正月九日の夜、淀の実万は関白を「不忠之至」と罵った。原文
所司代は関白に責任を推し、関白は所司代に推し、互いに譲り合った、と蘇峰は見る。原文
だが張本は九条でも酒井でもなく、井伊直弼と長野主膳であり、九条と酒井の二人は「井伊側の筋書の奉行者たるに過ぎなかつた」、と蘇峰は結論する。原文
関白をせき立てた裏には、正月十一日付の宇津木六之丞の書状もあった。原文
酒井の取り調べが「手弱く」、手ぬるいと見られては大害だ、と。原文原文
鍵をかけた担い笥のそばで、夜中の戸を叩く音を聞いた実万は、恨む相手を一人、取り違えていたのではないだろうか。
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』民友社、1940年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1228553 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻3』PID 1041909 |
| 日付・人名 | 本文の日付 3 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 11 名のうち 10 名が『維新史料綱要 巻3』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
