あらまし
安政5年(1858年)9月25日、京都所司代の酒井忠義は、公用人の三浦吉信を前内府三条実万の邸へやり、公家たちに回してほしいと一通の文書を届けさせました。蘇峰はこれを警告書と呼んでいます。酒井は大老井伊直弼の特命を受け、正論派の取り締まりの先頭に押し出された人物でした。
蘇峰は、酒井には同情すべき点もあったと見ています。京都の内情を百も承知し、尊皇の大義も普通の大名よりは分かっていた。良心は人を臆病にする、というのが蘇峰の酒井評です。
警告書はまず、この春の天皇の命令はもっともで涙が出たと述べ、条約調印は外国の説に迷った老中2人の責任だとしました。大老や老中まで責任の外に置くのは筋が通らない、と蘇峰は断じています。続けて、儒者や医者や浪人が人心を惑わし、外国を助けていると書きます。要になるのは、改心がなければやむを得ず関東の処置に任せる、という一句。遠回しのおどしだと蘇峰は読みます。
日付のない2通目は、江戸で白状した者が出たので連座の者を差し出せと伝えるものでした。一方で人を捕らえ、他方でおどしの言葉を送る。酒井がようやく参内したのは10月2日で、同じ日の近衛忠熈の口述の控えには、条約通りになれば国の大害だという嘆きと、関白辞退の件は幕府の願い通りに、という言葉が並びます。
調印した条約は取り消せず、朝廷の思し召しを文字通りに守れば幕府は行き詰まる、と蘇峰は見ます。幕府は口先の約束と引き換えに九条の関白復職を得たことになり、これが正議派の折れた第一歩だというのが蘇峰の読みです。正議派は手立てを持たず、小林良典の逮捕で、間部詮勝との応接役を立てる相談も止まりました。
その一方で、長野義言と島田左近は酒井に迫っていました。大老在職中である以上、井伊家の謀反は幕府の謀反であり、関東から徹底して調べよ、というのが長野の主張です。10月6日付の宇津木六之丞の返書は、鷹司父子を遠島にせよという酒井の強硬な申し越しや、間部も内心はくじけているという話を伝えています。長野らの目には、間部さえ弱腰に映ったと蘇峰は記します。
酒井忠義がおどしと弁明を一枚の紙に並べた経緯を、三条実万邸に届いた警告書、近衛忠熈の口述の控え、非蔵人日記、長野義言の意見書と宇津木六之丞の返書からたどれます。
安政五年(1858年)九月二十五日、京都。原文
所司代(京都に置かれた幕府の代表)酒井忠義の公用人(主君の対外の用向きを担う役)三浦吉信(七兵衛)が、前内府三条実万の邸に一通の文書を持参した。原文
堂上(朝廷の上級の貴族)の各卿に回してほしい、という依頼つきである。原文原文
九月三日に入京して以来、まだ参内(御所へ参上すること)もしていない所司代が、朝廷の公家たちに向けて書いた最初のまとまった言葉だった。原文
蘇峰はこれを「警告書」と呼ぶ。原文原文
「良心は人をして臆病ならしむる」
酒井忠義の立場を、蘇峰は「聊か同情す可きもの」と書く。原文
彼は京都の内外表裏を「百も承知」していた。原文
そのうえで大老(幕府の最高職)井伊直弼の特命を帯び、正論派取り締まりの第一線に押し出された。原文
普通の大名より、尊皇の大義について「やゝ多く諒解してゐた」人物でもあったという。原文原文
酒井のためらいは、優柔不断の性質のためばかりではない、と蘇峰は見る。原文
「良心は人をして臆病ならしむる」。原文
その一句で蘇峰は酒井を評している。原文原文
老中間部詮勝は九月十七日に入京している。原文
酒井の手が、長野義言や島田左近の注文通りとまでは行かずとも、その方向へ動かざるを得なかったのは「餘儀なき事情」だったと蘇峰は書く。原文原文
「神州之大患、外夷之補助」
警告書の冒頭、酒井はこの春の堀田正睦上京のときの勅諚に触れ、「叡慮之趣誠に御尤至極之御儀と、實に感泣仕候」と書く。原文
叡慮はまことにもっともで、感泣した、という。原文
そして条約調印については、老中(幕府の重臣)のうちに「洋夷之邪說に迷候者」があり、老職二人が急に退役を命じられたと述べる。原文原文
蘇峰はここに厳しい。
これは調印の責任を老中堀田正睦と松平忠固の二人にだけ負わせようとするものであり、もし当時の大老・老中の心事がこの通りなら「實に陋」だ、と断じている。原文
酒井自身は当時無役だったからともかく、大老や老中まで責任の外に置くのは「當て篏る可き筋合ではあるまい」とも書く。原文原文
警告書の矛先は、次に民間の志士(国事に奔走した在野の人々)へ向く。原文
「儒醫浮浪之者共、虛に乘じ、奸智を以て衆を迷し」、春の勅諚を口実に利欲をむさぼる者が多い。原文
そういう者は「神州之大患、外夷之補助」である、と。原文
儒者(儒学の学者)や医者や浪人たちが人心を惑わし、それは日本をうかがう外国を助けるのと同じだ、という意味である。原文
蘇峰は「能くも巧妙なる文句を點出したるものだ」と評し、朝廷が民間の有志に動かされている根本を遮ろうとした策だろうと読む。原文原文
酒井はさらに、外国は小国を力で征し、大国とは貿易で親しみ、内乱が起きれば一方に荷担して土地を割く、「誠に內亂は外夷之望處」だと説く。原文
内乱こそ外国の望むところだ、ということである。原文
だから三公九卿は「嫌疑を去り」、一日も早く静謐に帰るよう誠心を尽くしてほしい、と。原文原文
そして眼目の一句。原文
たとえ江戸から何を言ってきても、公家の方々には一言の尋問もないようにしたい、だが「御改心之期無之節は」やむを得ず関東の処置に任せることになる、という。原文
蘇峰はこれを「暗に威嚇の言を用ひて、其の改悔反正を促がすもの」と記す。原文原文
続いて日付のない第二の書も出された。原文
江戸で数人が召し捕られ、追々白状したので、連座の者を名指しで差し下すよう申してきた、まことにやむを得ない、という内容である。原文
鷹司家の小林良典ら公家の関係者を江戸へ送ったころのものだろう、と蘇峰は推す。原文
一方で関係者を逮捕し入獄させ、他方でこうした威嚇の言葉を発する。原文
「何者か其心を動かさずして止む可き」。原文
効き目は必ずあったに違いない、と蘇峰は書く。原文
酒井や内藤の手は、主上の側近くまで動き始めていた、と蘇峰は記す。原文原文
十月二日、小御所の天盃
九月三日に入京した酒井が参内したのは、ひと月後の十月二日だった。原文
未の半刻、午後三時ごろ、小御所(御所の中の建物)に出御があり、対面のうえ天盃を賜った、と非蔵人日記にある。原文
蘇峰はこの参内を、警告書の効果がほぼ現れたのを見済ましてから実行したものだろうと読む。原文原文
同じ日、近衛忠熈から酒井への口述の控書がある。原文
蛮夷一件について酒井の至誠を言上したところ叡感があった、と始まり、条約通りになれば「神國之大害」と深く嘆き思し召されている、幕府の役々が叡旨を立てるよう尽力してほしい、と続く。原文
そして「關白辭退一條も、御内慮御返答之趣に可被仰出候」。原文
前将軍徳川家定の遺言として留任を望んだ幕府の申請通り、ということだと蘇峰は注する。原文原文
蘇峰はここに幕府の窮地を見る。原文
いかに叡慮でも、調印した条約を取り消すわけにはいかない。原文
朝廷の思し召しは平穏に見えて、文字通りに遵奉すれば幕府は死地に陥る。原文
蘇峰はそう書く。原文
しかも、叡旨を奉戴するというのは未来の抽象的な約束で、関白(天皇を補佐する最高の官職)復職は現在の具体的な事実だ。原文
口先で行うと言えばそれまでで、朝廷はその「怪しげなる返答の代償」として、せっかく辞職させた九条を復職させることになる。原文
この口述書は、正議派が井伊派に叩頭した第一歩か、少なくともその端緒だと蘇峰は見る。原文原文
正議派が丸腰だったことも蘇峰は忘れない。原文
間部入京の翌々日には水戸の鵜飼父子、二十二日には小林良典が縛についた。原文
近衛、鷹司輔熈、三条らは間部との応接に小林や久我家の春日仲襄を立てる相談をしていたが、小林逮捕でその議は頓挫した。原文
「如何に朝廷の正義派が、勇猛なればとて、彼等は全く赤手だ」と蘇峰は書く。原文原文
「主家之謀反は公儀の謀反也」
酒井が正議派に迫っているあいだ、長野や島田は逆に酒井に迫っていた。原文原文
間部入京以来、鵜飼父子、小林民部大輔、同家の金田伊織らが召し捕られ、「堂上堂下、餘程恐怖之色相見候」。原文
公家も家臣も、よほど恐怖の色が見える、という。原文
蘇峰はこれを京都に「恐怖の政治を施いた」と言い表す。原文原文
長野の主張は一点に絞られていた。原文
井伊と九条が内通したという「關東謀反」の申し立てこそが事件の発端であり、ここを明白にすれば関白復職も陰謀の露顕も自然に成る、と。原文原文
ところが酒井は「末々之枝葉」にばかり関わる。原文
長野は反論した。原文
「在職中は、主家之謀反は公儀の謀反也」。原文
大老在職中である以上、井伊家の謀反とは幕府の謀反であり、関東から徹底的に穿鑿すべきだ、その証人は自分と島田左近である、と。原文原文
長野は主君井伊直弼にも、ほぼ同文の意見書を上げている。原文
意見書は酒井の警告書をこう評する。原文
脅し文句はあるが腹は柔弱と見抜かれ、しかも「關東之御趣意通に相成候時は、第一朝廷之御爲にも不相成」という結びの一句が、太閤鷹司政通・近衛・鷹司輔熈らの申し訳の種になってしまった、と。原文原文
長野はさらに、間部の用向きが済めば、前将軍家定の在世中の思し召しとして「禁中之御政事錯亂」を九条に申し上げる手段を講じよ、と説く。原文
「宮中一洗を企てた。事を成し遂げなければ息まざる底の漢だ」と蘇峰は書く。原文
長野は「小林申口」なるものも添えた。原文
蘇峰はそれが本当に小林良典の口から出たものか、当時の裁判筆記がどこまで信用できるかは「斷言出來ない」としつつ、長野がこれを証拠書類として一網打尽の政策を井伊に勧めたことは見て取れる、とする。原文原文
長野側の書面には、井伊家に切り込めば綸旨を出す、という近衛の内命の話まで出てくる。原文
これには蘇峰自身がためらう。原文
近衛忠熈は「溫厚老成の長者、斯る激語を發す可しとは思はれない」、中間に何かの経緯があったのだろう、と。原文原文
十月六日、宇津木の返書
長野の意見書への反響は、十月六日付の宇津木六之丞の返書に現れる。原文原文
返書には意外な一節がある。原文
酒井が、鷹司父子を遠島(島流しの罰)に処せば他の公家は口出ししなくなり、近衛の内覧辞退と九条の復職が成る、と申し越したというのだ。原文
長野や島田でさえ口に出さなかった強硬策である。原文
宇津木の解釈では、酒井は関東がそんな提議を採用するはずがないと見越し、わざと強がりを言ってきた。原文
蘇峰はそのどちらとも保証できないとしつつ、長野らに優柔不断を責めつけられた窮余の献策であったことは「付度するに餘りある」と書く。原文原文
もう一つ。
間部も「表强く見へ候得共、內意は銳氣くぢけ候と見へ」、兵庫開港を他港に代えれば万事すらすらと済む、と言ってきたという。原文
表向きは強いが内心はくじけているように見える、ということである。原文
京都は当初、将軍宣下を交換条件にしようとしたが、間部入京と志士の逮捕で満廷が恐怖に襲われる中、「將軍宣下の握り潰しなど、殆んど夢にも出で來り得可きものではなかつた」と蘇峰は記す。原文原文
二つの肉薄のあいだで
こうして見ると、安政五年九月の京都には、二つの肉薄が同時に進んでいた。原文
長野らの目には、酒井の弱腰は言うまでもなく、「討手の大將」間部詮勝さえ、ともすれば弱腰の醜態をさらすかに見えた、と蘇峰は章を結ぶ。原文原文
酒井の警告書は、脅しと弁明と、叡慮への感泣とが同じ紙の上に並んでいる。原文
その揺れを「良心」と読んだのは蘇峰である。原文
長野はそれを「腹は柔弱」と読んだ。原文
どちらが酒井の実像に近かったのか、答えは一つでなくてよいのかもしれない。原文
十月二日、小御所で天盃を受けた所司代。原文
その同じ月、江戸へ送られていく公家の家臣たち。原文
酒井忠義は盃を持つ手と、縄を打つ手を、同じ一人の身に抱えていたのではないだろうか。原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』民友社、1940年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1228553 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻3』PID 1041909 |
| 日付・人名 | 本文の日付 8 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 10 名のうち 9 名が『維新史料綱要 巻3』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
