あらまし
三条実万は、先の天皇の代から議奏と伝奏の役を務めてきた老臣である。安政六年(1859年)二月、天皇が実万を含む四人の老臣の処分をやわらげようと動く。二月二十一日、関東へ掛け合うようにという文書。天皇の考えの書き取りを賜り、所司代の酒井若狹守に相談した、と徳富蘇峰は引く。
関東の求めは重かった。太閤鷹司政通は髪を下ろして隠居、左府近衛忠熈は官を辞して隠居、右府鷹司輔熈は辞官と剃髪。三条前内府実万も剃髪と隠居である。天皇は考えを重ね、政通が文政年間から職にあり高齢に達していることを挙げた。蘇峰は、政通が時に鎖国論に反対し、やや煙たがられた老臣だったと記す。
別紙では四人とも剃髪を免じ、隠居や辞官にとどめる案。頭を剃ることだけは避けたい、という一線だった。天皇の言葉は近衛忠熈を加冠の役であり書道の師範と呼び、輔熈と実万の勤めも並べる。そして、堂上の者が将軍家をどうにかしようと企てたのではないと述べた。蘇峰は、どんな弁護よりありがたい言葉だと評する。
酒井は承ったと受けながら、寛大な処置は関東への聞こえがよくないと答える。一条家の家司、入江雅楽頭と若松木工権頭の供述も持ち出した。どのような命令があっても関東へ伝えることはできない、と言い切る。追伸では公武合体の考えに食い違いが出ると述べ、早い処置を求めた。蘇峰は、酒井が井伊直弼のように朝廷を一掃しようとする者ではないと見る。
この追伸は左少将の千種有文の知恵だ、と蘇峰は判じる。千種は侍従の岩倉具視とともに、酒井らと行き来して運動していた。二月二十三日、千種は酒井の公用人三浦吉信に手紙を送り、末尾をもう少し厳しくしてはと注文する。一方、大納言の中山忠能は水戸の裁許が付くまで処分を決めぬよう申し上げ、千種は障害だと嘆いた。
やがて実万のもとへ、子で少将の三条実美が紋付の文庫を持って現れる。中身は天皇の自筆とその写し、老中間部詮勝の書き取り、吟味での供述の抜き書き。自筆には実万を愛し賞すべき人とあり、外国人を遠ざけたいのは自分の願いだと書かれていた。翌日返上と命じられ、実万は肝要の分だけをひそかに写す。国府種徳によれば、関東は従わず、三月に忠熈と輔熈は剃髪して官を辞した。
天皇が老臣たちの処分をやわらげようとした二月の動きは、酒井若狹守の返答書、千種有文が三浦吉信に送った手紙、そして三条実万がひそかに写し取った天皇の自筆からたどれる。
二月二十一日、所司代への示談
安政六年(1859年)二月二十一日。原文
天皇の思召を関東へ掛け合うべし、という趣きの文書が、この日、京都所司代に示された。原文原文
「猶又叡慮之御趣意、御書取を給候て、所司代(京都に置かれた幕府の代表)酒井若狹守へ及示談」と三条実万の記録『忠公記』にはあると徳富蘇峰は引く。原文
またも天皇の御趣意の書取を賜り、所司代に相談した、という意味だ。原文
蘇峰はこの「猶又」の二字に注意せよと言う。原文
すでに二月十七日付で関白(天皇を補佐する最高の官職)まで沙汰(通知・命令)が下りていた。原文原文
示談の一件とは、四人の老臣の処分だった。原文
関東はこの四人を「元悪」と認めていた、と蘇峰は記す。原文原文
古稀の太閤、加冠の傅
御趣意書の文面を、蘇峰は全文掲げている。原文
まず関東の要求が並ぶ。原文
太閤は落飾(髪をおろして出家すること)隠居(家督を譲って退くこと)、左府は辞官(官職をやめること)隠居、右府は辞官落飾、三条前内府は落飾隠居。原文原文
天皇はこれを「段々と御熟考」された。原文
やむを得ない訳合いもあろうかとは聞いておられる。原文
しかし、と続く。
太閤鷹司政通は「先朝御代文政年中より當職」、いまや「古稀」に及ぶ。原文原文
政通は天皇にとって師傅以上の位置にあったが、時には鎖国論に否を唱え、聖旨に添わぬこともあった。原文
実を言えば「やゝ烟たがられたる老臣」であった、と。原文
それでもこう憐愍の情を垂れられるのは老臣への厚い思召だ、と蘇峰は書く。原文原文
左府近衛忠熈については「立坊より爲傅、每事忠勤且御書道之御世話」。原文
東宮に立たれてからの傅として万事に忠勤、書道の世話まで専ら勤めた、という。原文
右府鷹司輔熈は東宮大夫として精勤。原文
三条実万は先朝以来、議奏(天皇に意見を伝える役)と伝奏(取り次ぎ役)の役中「誠忠積年」の人。原文原文
そして核心の一節が来る。原文
堂上(朝廷の上級の貴族)の者たちが関東を「兎や角」しようと内謀した、とは聞いていない。原文
外国人を遠ざけ、神国を汚さぬようにという願いから、みな起こったことだという意味である。原文原文
「千萬言の辯護よりも、有り難き御言葉だ」と蘇峰は記す。原文原文
別紙も添えられていた。原文
鷹司太閤は落飾を止め隠居慎。原文
近衛左大臣は落飾を止め辞官慎。原文
鷹司右大臣も同じ。原文
三条前内府は落飾を止め隠居慎。原文
頭を剃ることだけは止めてほしい、という一線であった。原文原文
酒井の断固たる拒絶
これほどの思召であれば、関東が従うのが常識から見ても当然だ、と蘇峰は言う。原文
しかし関東の形勢はそう容易に運ぶものではなかった、とも書く。原文
今さら落飾を中止するなどは思いも寄らぬことだった、と。原文原文
所司代酒井忠義の返答書は、こうである。原文
酒井はまず、御趣意は「奉畏候」と受ける。原文
承りました、である。
だが続きは厳しい。
左府については「不容易次第も相聞え候上」、そのうえ別冊の入江雅楽頭、若松木工権頭の「申口」もある。原文
容易ならぬ事情が聞こえてきており、さらに一条家家司の入江と若松の供述もある、という意味だ。原文
吟味は未決だが、供述どおり相違あるまい。原文
だから寛宥の処置になっては「不御宜」、関東にどう聞こえるか。原文
「如何樣御沙汰御座候とも、關東へ申遣候事は難仕來存候」。原文
どのような沙汰があっても、関東へ伝えることはできかねる、と言い切った。原文原文
近衛以外の鷹司父子、三条についても同様である。原文
忠誠の心からの心得違いと思召されようとも、すでに「正道に無之周旋」が顕然となった以上、格別の憐感の沙汰はかえって宜しくない。原文
落飾の願いを早々に聞き届けられるべきだ、と。原文原文
追伸まである。原文
このたびは是非聞き入れられねば「折角公武御合體之叡慮にも齟齬仕」。原文
せっかくの公武合体の思召にも食い違いが出る、という意味だ。原文
聞き届けの上は「早々急々」に処置してほしい、と。原文原文
蘇峰はここで酒井その人を測る。原文
酒井は井伊直弼のように水戸退治の根本方針を持って朝廷一掃を企てる者ではない。原文
自分一個としては聖旨を奉じるに吝かではなかったかもしれない、と。
それでもこう断乎と言い切るのは、関東の決心がいかに堅いかを示す。原文
しかも酒井は、いささか関東の強音を緩和する「電話機」だった、と蘇峰は書く。原文原文
「御手弱き殿下故」
その追伸には、裏があった。原文
蘇峰は、追伸が実は千種有文の「入智惠」だったと判じている。原文原文
千種は左少将。原文
侍従の岩倉具視とともに村上源氏久我家の末流である。原文
二人は伏見奉行(伏見を治める幕府の役人)で禁裡取締の内藤正繩と往来し、酒井とも交通して運動を逞しくした、と蘇峰は記す。原文
酒井の態度が強硬だったのは井伊側の圧迫だけでなく、千種らの後押しのためでもあった、と。原文原文
二月二十三日付、千種が酒井の公用人(主君の対外の用向きを担う役)三浦吉信に与えた一書がある。原文
昨夜直ちに参内(御所へ参上すること)し、富小路敬直を通じて内々に申し上げたところ、主上は「御得心相成」。原文原文
返答書の文言は至極だが、末尾を「今少嚴敷御認にては如何哉」。原文
もう少し厳しく書いてはどうか、と注文をつける。原文
「彼例之殿下にて」。原文
あの例の殿下のことだから、と千種は書く。原文
先だっても「不日」の二字さえ分からなかった関白だから、早くしなければ延び延びになる。原文
来月初旬の神事後まで延ばされるかもしれぬ。原文
これがあの追伸だった。原文原文
「何分御手弱き殿下故」。原文
何分にも手弱い殿下なので、と千種は続ける。原文
蘇峰は、九条関白の「人形使ひ」は一方に島田や長野の徒、他方に千種や岩倉の徒がいたと言っても差し支えあるまい、と書く。原文原文
主上は近衛忠熈の宥免には「最早匙を御投げ遊ばされた」のだろう、と蘇峰は読む。原文
一方、大納言(朝廷の高い官位)の中山忠能が、鷹司父子と三条は「水府裁許」まで処分を決めぬよう強く言上した。原文
水戸の裁許が付くまで待てという意味だ。原文
主上は「誠に御困り」。原文
千種はこれを「大に障に相成候て、扨々困入心配候」と嘆く。原文
大いに障害となって困った、である。原文
そして右大将の久我建通の名も出す。原文
千種はなぜこれほど処分を急ぐのか、と蘇峰は問い、久我建通も千種も「同穴の狐」だったと記す。原文原文
実万の文庫拝見と抄録
実万はこのとき、淀の民屋に屏居していた。原文
屏居とは、家に閉じこもって謹慎することである。原文
そこへ知らせが届く。少将がこの亭に来られる、と。原文原文
やがて実万の子で少将の三条実美が入ってきた。原文
手には御紋付の文庫。原文
御沙汰の趣きにより、烏帽子小直衣を着けて拝見せよ、という。原文
実万はすぐに着した。原文原文
経緯を蘇峰は実万の記録から追う。原文
昨夜、中山忠能の書状によって実美は内々に参内した。原文
文庫を出させた「兒」はあまりに幼く、議奏加勢の正親町実徳がこれを扶持して聖旨を伝えた。原文
外夷一条の御書付(文書)と、太閤以下の進退について、叡慮の趣きを聞かずにいては、どんな処置かと思うであろう。
厚く思召されて申し遣わされたが、所司代は御受けせず、関東に通達し難いと申し上げた。原文
やむを得ず近日、願意のとおり沙汰に及ぶ。原文
それまでにこの書取を拝見せよ、という内示だった。原文
この拝見は九条関白には告げず、内々に実万だけへ仰せ付けられた、と蘇峰は記す。原文原文
実万はまず盥漱して開封した。原文
文庫の中に白木の桐宮、またも封。原文
鷲檀紙包の折紙三包、これが勅筆あるいはその写し。原文
太閤、左府、右府、実万らの進退について内々申し上げた老中間部詮勝の書取。原文
昨年、町奉行(江戸などの町を治める役人)で吟味を申し付けた者たちの申口から、四人に引き合う筋を抜き書きした四冊。原文
一条家家司の入江、若松の吟味申口が数十通。原文
「一々不能縷記」。原文
一つ一つ書き記すことはできない、と実万は書いた。原文原文
入江・若松の申口には調伏の祈禱の件が含まれていた。原文
命じたのは一条内府、だが実は左府の内託、と実万は付記している。原文
これは昨冬の言上には無く、いま社人吟味中のもの。原文
二冊あった、と。原文原文
「元來夥敷文書、然而此分肝要被取撰爲見被下之由也」。原文
おびただしい文書の中から肝要なものを選んで見せてくださった、という意味だ。原文
明日返上の仰せ。原文
実美の帰京は深更に及び、外見も如何。原文
そこで実万は肝要の分だけを「竊に奉拜寫」した。原文
ひそかに書き写したのである。原文
「朕」の一字
御趣意書とほとんど同じ文句だが、緊要の点で一、二加わっている、と蘇峰は言う。原文
御趣意書はこの勅筆から出来たもので、聖旨の真面目は勅筆によって初めて明らかになる、と。原文原文
忠熈について。原文
「況爲朕之加冠、且筆道師範」。原文
まして朕の加冠を務め、筆道の師範でもあった、という。原文
東宮時代からの親しみであり、格別に顧みられるのも偶然ではあるまい、と蘇峰は記す。原文原文
実万について。原文
「行狀も可愛賞人に候」。原文
行いも愛し賞すべき人だ、という意味だ。原文
この一句は「千釣の重み」がある、と蘇峰は書く。原文原文
そして、御趣意書には無かった主語が現れる。原文
「今般朕如何にも蠻夷に於ては、忌遠け度懇念に付、此輩へも談合候處」。原文
このたび朕がどうしても外国人を忌み遠ざけたい懇念から、この者たちにも相談したところ、という意味である。原文
堂上の輩が「大樹德川家を兎角可致との內謀計略は一切無之」。原文
将軍家をどうにかしようという内謀は一切無い。原文
宝暦年中の異変風説のようなこととは甚だ相違する、と続く。原文原文
蘇峰はこの一節を「事件の眞相を穿たせ玉ひたる御言葉」と呼ぶ。原文
この一件は全く主上から働きかけたもので、諸臣は聖旨を助けた忠貞にすぎない、と。原文
情理貫徹、どんな幕吏もこれを読めば聖旨に従うほかない文だ、と蘇峰は書く。原文原文
しかし関東は従わなかった。原文
蘇峰が引く国府種徳の記述では、天皇は再三書を間部に賜ったが聴かれず、三月に忠熈と輔熈は剃髪して官を辞した。原文
淀の民屋で、烏帽子小直衣の老臣が夜のうちに写した紙。原文
そこには自分を「愛賞」すると書かれ、罪はすべて「朕」にあると書かれていた。原文
その紙を返上せねばならぬ朝が来る。原文
翌日、実万は何を思って文庫の蓋を閉じたのだろうか。原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』民友社、1940年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1228553 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻3』PID 1041909 |
| 日付・人名 | 本文の日付 4 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 8 名のうち 5 名が『維新史料綱要 巻3』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
