あらまし
大老の井伊直弼を斬った一団が、その日のうちに自ら名乗り出ました。安政7年(1860年)3月3日、辰の口。元薩摩藩士の有村次左衛門は21歳で、直弼の首をかたわらに置いたまま腹を切りました。襲撃は跡片付けまで含めて半時もかからなかったと蘇峰は記します。井伊家の門前に出てきた5、60人は、駆けつけた者に止められて引き取ったと興津は伝えています。
有村はへその上を横に切りましたが、朝からの戦いで深手を負い、出血がひどく前へ倒れます。通りかかる者に首を落としてくれと頼んでも、誰も近寄りません。届けを受けた遠藤家の役人に、彼はかすかに主家の名を告げただけだったと蘇峰は伝えています。幕府の役人が調べた傷は、のど、右手の甲、左目の上下、頭と、数か所。懐中には品川から大津までの道中の書付があり、無事なら西へ行く気だったと蘇峰は見ています。
首を運んだのは有村だけではありません。同志の広岡子之次郎は19歳で同じ辰の口で自ら死に、稲田重蔵は47歳で討ち死にしました。八代洲河岸では山口辰之介と鯉淵要人も、重い傷を負って自ら死にました。井伊側も抵抗しており、斬った側の傷の重さがそれを示すと蘇峰は念を押します。井伊側に言い分の余地はあっても、天皇の周りに手を回した措置は行き過ぎだと蘇峰は見ています。
仲間には取り決めがあったものの、知る者と知らぬ者がいて散り散りになったと蓮田市五郎は語っています。番所で老中の役宅へ案内を頼んでも、相手は震えるばかりで返事もありません。書付を出す役の斎藤監物は戦いに加わって頭に深い傷を受け、歩くのも難しい有様でした。そこで蓮田が代表となり、斎藤を支えて、辰の口の脇坂淡路守の玄関で一通を差し出しました。5日と7日に評定所へ呼ばれ、9日の夜には預け替えで厳重に守られました。
書付は、外国の勢いにおびえて天皇の考えに背いた大罪人だと直弼を指します。そのうえで、京都にも知らせ、天に代わって罰するつもりで斬ったと述べています。添えの書付は黒船以来の経緯を並べ、将軍が人事も弁えぬ時に乗じたと説きます。幕府に敵対する気はなく、元の主家に咎めが及ばぬよう願うとも書き添えました。私の恨みのためではなく天下の大事と考えて命を捨てたのだと蘇峰は評しています。
日暮れに申し渡しがあり、黒沢忠三郎ら4人は石谷因幡守へ、さらに細川越中守へ預けられます。佐野竹之介は脇坂家にいるうちに亡くなり、その白い襦袢には朱の2字と歌がありました。関鉄之介は3月3日付の手紙で、狙う相手を瞬く間に倒したと家へ伝えています。12日の評定所では、塩漬けにして瓶に納めた4人の死骸を前に、蓮田が名を言わされます。思わず涙がこぼれたと蓮田は書き残しています。
辰の口での自害から瓶の中の4人までが、蓮田市五郎の語り、関鉄之介の3月3日付の手紙、佐野竹之介の襦袢の歌、そして蘇峰の評からたどれます。
安政七年(1860年)三月三日、辰の口。原文
遠藤但馬守の辻番所の前で、一人の若者が血刀を置いた。原文
傍らには、この朝、桜田門外で襲われた大老(幕府の最高職)井伊直弼の首。原文
元薩摩藩士の有村次左衛門、二十一歳。原文
彼はその首を横に据えたまま、腹を切った。原文
「臍上を横に四寸程、右の方へ一寸程」と蘇峰は記す。原文
へその上を横に四寸、さらに右へ一寸あげて切った、という傷の寸法である。原文
しかし今朝からの力戦で深手を負い、出血がはなはだしく、そのまま前へ倒れた。原文
有村は通りかかる者に介錯(切腹する人の首を落とす役)を頼んだ。原文
近寄る者はいなかった。原文原文
辰の口の辻番所
番人が遠藤家へ届け、同家の役人が出てきた。原文
有村はかすかに「松平修理太夫家来」と告げ、あとは聞こえなかった、と蘇峰は伝える。原文
戸板に乗せられ、直弼の首とともに辻番所へ担ぎ込まれた。原文原文
やがて幕府の小人目付(監察役)が来て検視した。原文
咽喉から左の襟へかけて突き傷一か所。原文
右手の甲へ三寸五分。原文
左の人差し指は切り落とされていた。原文
左の目の上下に幅三寸、深さ二分。原文
頭から後ろへ切り傷が一か所、長さ四寸、幅七分。原文
そして絶命した。原文原文
懐中には「品川より大津までの先触書」があった。原文
無事なら同志とともに上方へ赴き、義軍に投じて一働きするつもりであったことが、これで判る、と蘇峰は書く。原文
死ぬ気で斬った男が、生きて西へ行く手配りをしていた。原文原文
首を運んだのは有村一人ではない。原文
同志の広岡子之次郎も一緒だったが、深手のため同じ辰の口で自殺した。原文
十九歳。原文
その場で討死した稲田重蔵は四十七歳。原文
いわゆる義盟十八士は「彼等が豫期の如く成功した」が、「決して無代償ではなかつた」と蘇峰は言う。原文原文
八代洲河岸、二人
成功は早かった。原文
跡片付けまで含めても半時もかからなかった。原文原文
その直後の光景を、目撃した興津の記録は細かく伝えている。原文
駕籠脇の深手の侍がようやく亡骸にたどり寄り、持ち去られる首を見て取り返そうとし、また亡骸に取りついて嘆き、やがてその侍も落命した。原文
別の二人が主人の亡骸を駕籠に納め、担いだものの歩けず、大隅守屋敷の下へ置いたまま二人とも倒れた。原文
赤合羽の二人が駕籠を担ぎ上げ、血刀を下げた駕籠脇ふうの者が一人、付き添って帰った。原文
井伊家の表門あたりへ戻る頃、鉄砲、槍、棒などを持った五六十人があわただしく出てきたが、上下を着た者が駆けつけて制止し、皆引き取った。原文原文
井伊側は決して無抵抗で主君の首を渡したのではない。原文
それは義徒の手負いが尋常でなかったことからも分明だ、と蘇峰は念を押す。原文原文
義徒の側でも、八代洲河岸でさらに二人が死んだ。原文
山口辰之介、二十九歳。原文
鯉淵要人、五十一歳。原文
いずれも重傷を負い、ここで自殺した。原文
あとから引き上げてきた同志が、二人の遺体を見ながら通り過ぎることになる。原文原文
蓮田の申し開きと引き渡し
約束があった、と自訴組の一人、蓮田市五郎は語っている。原文
だが約束を知る者と知らぬ者があり、内藤の屋敷の場所も誰も知らず、めいめい散り散りになった。原文
引き返して、ある見付番所に入り、御老中(幕府の重臣)の役宅へ案内してくれと頼んだ。原文
番所の者たちはただ震えているばかりで、返事ひとつしない。原文
馬場先門でも同じだった。原文
やむなく八代洲河岸を通り、山口と鯉淵が死んでいるのを見た。原文
そのまま辰の口まで来た。原文
斬奸書の提出役は斎藤監物である。原文
ところが斎藤は自分を制しきれずに戦闘に加わり、頭頂に六寸余、ほか数か所の手傷を負っていた。原文
黒沢忠三郎も同様で、歩くのも困難だった。原文
田安殿へ出て書付(文書)を奉呈したいと思いながら、斎藤の足はもう覚束ない。原文
大関は先へ行き過ぎて見えなくなった。原文
そこで蓮田が一同を代表して申し開きをすることになり、斎藤を扶けて、辰の口の閣老脇坂淡路守の玄関へ出た。原文原文
長く待たされ、内玄関へ通された。原文
蓮田は懐中の一封を取り出して差し出した。原文
八つ時、午後四時になって傷の治療を受けた。原文
蓮田の傷は右の肩に二寸余で二針、腕に三寸ほどで三針。原文
蓮田は治療を受けずに割腹しようとした。原文
そこへ、なぜ「從容死に就かざる」か、落ち着いて死に向かえばよいものを、なぜ今慌てて死ぬのか、と止める言葉があった。原文
蓮田は思いとどまった。原文原文
日暮れに申渡があった。原文
「水戸様御家来黒沢忠三郎、佐野竹之介、蓮田市五郎、斎藤監物、思召有之、石谷因幡守へ御引渡」。原文
石谷からはさらに、細川越中守へ御預け、と申し渡された。原文
細川家の受取役が大勢を引き連れて詰めており、すぐに引き渡された。原文
佐野は深手で、脇坂家にいるうちに落命した。原文原文
「天誅に代り候心得」
蓮田が差し出した斬奸書の主旨は自から分明である、と蘇峰は言う。原文原文
外国に対しては「虛喝之猛勢ニ恐怖致し」て国体を穢し、叡慮に背いた。原文
ゆえに「天下之大罪人」である。原文
そして「京師へも及奏聞、今般天誅に代り候心得にて、斬戮仕候事ニ御坐候」。原文
京都にも奏聞のうえ、天に代わって罰を下すつもりで斬った、というのである。原文原文
続けて「毛頭公邊へ御敵對申上候義ニ無之」。原文
幕府に敵対する気は少しもない、と断っている。原文
法の通りどのように処置されても恨みは申し上げない、ただ元の主家に咎めが及ばぬよう願う、とも。原文
蘇峰はこれを読んで、彼らは私怨を晴らすためでも私意のためでもなく、「天下の大事と心得て」命を犠牲にしたのだ、と評している。原文原文
懐中にはさらに副書と「別紙存意書」があった。原文
その内容は、嘉永の黒船以来の幕府の軟化、安政三年の夷狄登城(江戸城に出仕すること)、勅許なしの五か国条約、堀田正睦の上京と賄賂、八十八人の堂上(朝廷の上級の貴族)方の諫奏、不時登城、将軍大病に乗じた処分、安政の大獄、青蓮院宮の幽閉、と一通り数える。原文原文
このうち蘇峰が特に目を止めるのは「人事をも御辨無之砌に乘じ」の一句である。原文
将軍が人事も弁えられない時に乗じて、という意味だ。原文
実を言えば将軍家定は安政五年七月四日に死んでいる。原文
その喪を秘して、七月五日に尾張・水戸・越前らの処分を断行した。原文
これでは人心が満たされないのも当然で、ましてや水戸の臣下においてはなおさらだ、と蘇峰は書く。原文原文
一方で蘇峰は、井伊側にも答弁の余地は必ずしも無くはない、とも言う。原文
しかし主上の周辺に手を回し、孤立無援の位置に立たせた措置は「餘りに甚だしき仕打」であり、反対側から逆賊と断じられたのも無理はない、と見ている。原文
存意書が家康を尊王攘夷(外国を追い払うこと)の本尊に立てた点については、「當人に取りては、ちと迷惑であつたかも知れない」と一言添えている。原文原文
瓶の中の四人
五日、黒沢、大関、森山が評定所へ出た。原文
斎藤と蓮田は出なかった。原文
七日は一同出たが、斎藤は深手で出られない。原文原文
九日の夜、六人は預け替えになった。原文
本多家の手当ては厳重で、四方格子、都合三重の囲い。原文
役人から下人まで十人ばかりが日夜守衛した。原文原文
十二日、評定所。原文
四人の死骸が瓶に塩漬けにされて出され、蓮田にその姓名を言わせた。原文
「予不覺潛然たり」と蓮田は記している。原文
思わず涙が流れた、と。
日数が経ち、顔は甚だ変わっていた。原文
見れば山口辰之介、広岡子之次郎、稲田重蔵、鯉淵要人。原文
有村は「賊檜の首を抱き死す」と伝え聞いた、とも蓮田は書く。原文原文
関鉄之介、岡部三十郎、増子、海後、広木は行方知れずと聞いた、とも蓮田は書く。原文
関が三月三日付で家に書いた手紙には、「佐野初メ見事のはたらきにて、當の敵は、瞬息の間ニ倒し申候」とある。原文
佐野をはじめ見事な働きで、狙う相手は瞬く間に倒した、というのである。原文
ただ稲田重蔵一人が討死したことを「可憐」と記した。原文原文
その佐野竹之介の白布の襦袢には、朱の字で横に「忠誠」と書かれていた。原文
その下に歌がある。
「さくら田に花とかばねはさらすとも、なにたゆむべき大和魂」。原文原文
昭和六年九月十日
この章の後半に、蘇峰は一つ、自分の日付を書き入れている。原文
「昭和六年九月十日、六十九叟蘇峰學人、禁じ難き哀傷を彊めて、此稿をつゞく」。原文
昨九日、家の跡継ぎである長男、海軍少佐徳富太多雄が病のために帰らぬ客となった、と。原文
一夜まんじりともせず、古稀に近い身でなお自分を制しきれぬことを恥じる、と彼は書く。原文原文
そのすぐあとに続くのが、蓮田の語る自訴の経過であり、瓶の中の四人である。原文
十九歳の広岡、二十一歳の有村、二十九歳の山口。原文
息子を失った翌日の筆が、若い死骸の名を一つずつ言わせる場面を写していく。原文
蘇峰は何も重ね合わせていない。
しかし読む側は、この並びを偶然として読み流せないのではないだろうか。原文
辻番所の前に置かれた首と、その横で前へ倒れた二十一歳。原文
瓶の口から覗く、日数で変わった四つの顔。原文
蘇峰はその両方を、同じ章の中に書き留めている。原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第43 櫻田事変』民友社、1940年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1228574 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻3』PID 1041909 |
| 日付・人名 | 本文の日付 5 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 12 名のうち 12 名が『維新史料綱要 巻3』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 第43 櫻田事変』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
