あらまし
安政5年(1858年)5月、勘定奉行として海防掛(海の守りの担当)も兼ねていた川路聖謨が、老中の堀田正睦あてに意見書を差し出しました。日付は3日。井伊直弼が大老の座に就いた10日後のことです。
意見書はまず現状を数え上げます。天皇の返答が思いがけないものだったため、三家以下に改めて意見を求めることになり、尾張と水戸の答えは2日に目を通した、条約は受け入れがたいという趣旨で、ひどく困っている、と川路は書きました。約束を破れば相手に口実を与えて戦になり、調印すれば国内の人心に背いて先々治まらない。京都へ向かう供を命じられ、現地の容易でない様子を見ただけに、寝食を忘れて苦しんだとも記しています。
そこで川路は、二つのうち扱いやすい方を先に処置すれば両方が運ぶと説きました。今回の返答の本当のねらいは、むしろ将軍の跡継ぎを誰にするかにあるのではないか、というのです。跡継ぎさえ決まれば条約の件も穏やかに許されるのではないか、すでに島津斉彬や松平慶永らも申し立てている、人望の集まる方に決まれば上は天子から末々まで治まるのではないか、と続きます。蘇峰は、京都の空気の中で条約反対論と一橋家を推す議論がいつのまにか一つに見えただけだと注を入れ、川路が跡継ぎを立てることをあらゆる争いを鎮める手立てと見なしていたと記しています。
ではなぜもっと早く出さなかったのか、と蘇峰は問います。正月に江戸を発つまで川路の態度ははっきりせず、松平慶永が橋本綱紀を差し向けて本心を聞き出そうとしたときも、引き受けかねることもあると答えてかわしていました。ところが京都から戻り、紀州派がほぼ勝ちを占めた間際になってこの意見書を出した。要職の一人がこの一大事を知らずにいたとすれば迂闊にすぎる、と蘇峰は言い、再起しない病人に薬を投じる気持ちだったのか、身辺に迫る不安から最後の決心をしたのかは推し量る術がない、と筆を止めます。
5日に呼び出しがあり、6日、川路は西丸留守居へ移りました。2000石高、諸大夫席(一定の格式の座)ではあるものの、空の城の番人で席次が20等下がる閑職だ、と蘇峰は書いています。川路の伝記によれば、意見書を目にした大老は、あの地位でこれほどの大事を申し立てるのは越権だと激怒し、どんな罰にもという勢いを側の閣老、おそらく堀田がなだめて左遷にとどめました。井伊直弼は就任前から長野主膳あての書中で川路を悪い者と言い切っており、この上書が一掃策を断行させる近い原因になったのは間違いない、と蘇峰は見ています。
同じ6日付で大目付の土岐頼旨も大番頭へ移されます。宇津木の書状は、反対の側は色を失い、味方は小躍りし、城内は静まったと伝え、残りも追々洗い清める考えだとしています。井伊家の記録では7日、跡継ぎは紀州に、堀田は京都での不行き届きにより役御免との意向が示されました。反対の側からは、正論を言う者が嫌われ土岐、川路、鵜殿らが次々に転役させられ一同が驚いているという声も上がります。蘇峰は、川路は結局井伊の最初の犠牲にされたにすぎないと書き、ここから一掃策が順に実行され始めたと記しました。
意見書から左遷までのわずか4日間を、川路の伝記、岩瀬忠震が橋本綱紀にあてた5月5日付の手紙、水野忠徳の話、宇津木の書状、井伊家の記録、そして蘇峰の評から追うことができます。
安政五年(1858年)五月三日。原文
勘定奉行の川路聖謨が、一通の意見書に日付を入れた。原文
差し出す先は老中(幕府の重臣)の堀田正睦まで。原文
川路はもとよりその覚悟で、こうしたものだろう、と蘇峰は見る。原文原文
直弼が大老(幕府の最高職)になったのは、その十日前のことだ。原文
長野主膳が島田左近に与えた秘書は、そう伝える。原文
これまでは「当分御用部屋入」と称して見習いを経ないと政事に預からぬ例だったが、直弼は就任直後から政務に加わった。原文
「表へ出し候ては大事」と言う者もいた。原文
直弼は「表にて被仰出候事を內證にて御取扱之筋者有間敷」と押し切った。原文
表で仰せ出されたことを内密に扱う筋はない、という意味だ。原文
即刻決定。原文原文
堀田の手に渡れば、大老井伊直弼の目に触れない理由はない、と蘇峰は記す。原文
この大老の前に、川路の封事は置かれることになる。原文原文
立儲を平治の方便と見なす
意見書は、まず現状を数える。原文
案外の勅答により、三家以下に再諮問となった。原文
尾張・水戸の答えは二日に拝見した。原文
京都の沙汰(通知・命令)に依り、条約は不得意との趣意。原文
「甚以當惑仕候」。原文
ひどく困惑している、と川路は書く。原文原文
調印を違約すれば相手に口実があり、兵端は必定。原文
調印すれば国内の人気に背き、この先国内が治まらない。原文
「晝夜心配仕候」。原文
昼も夜も心配している。原文
上京の陪従御用を命じられ、京師の容易ならぬ様子を目にしただけに、寝食を忘れて苦心したという。原文原文
そこで方略が出る。原文
二つのうち取り計らいやすい方を処置すれば、両方が行われる、と。原文
「今般內實、重之御趣意歟」。原文
今回の勅答の真意は、むしろ儲君の選択にあるのではないか、と川路は道破した。原文
蘇峰はここに注を入れる。
京都の雰囲気の中で、いつの間にか非条約論と一橋論が合体したように見えただけだ、と蘇峰は言う。原文原文
川路はさらに書く。原文
儲君を仰せ出されれば、条約が勅答通りにならなくとも、「其餘之義も、穩に御許容可有之歟」。原文
その他のことも穏やかに許容されるのではないか。
すでに島津斉彬、松平慶永らが儲君のことを申し立てている。原文
人望の帰する方へ沙汰があれば、「上者天子より下諸侯(大名たち)、竝末々に至り候迄、其一事にて穩に治り可申歟」。原文
上は天子から下は諸侯、末々まで、この一事で穏やかに治まるのではないか。原文
立儲を一切万事の葛藤を平治する方便と見なしている、と蘇峰は書く。原文原文
煮え切らぬ請書と九分九厘
では、なぜもっと早く出さなかったのか、と蘇峰は問う。
正月に江戸を発つまで、川路の態度は煮え切らなかった。原文
松平慶永が橋本綱紀を差し向け、真肝を吐かせようとした時の請書はこうだ。原文
初対面だが弁論は理を尽くして詳細、恐れながら感服した、と褒める。原文
続けて「御受之出來兼候儀も御座候」。原文
お引き受けできないこともある、とかわした。原文
ところが京都から戻り、九分九厘まで紀州派が勝利を占めた間際になって、この意見書を出した。原文
川路は内輪の消息に通じていなかったであろう、と蘇峰は言う。原文
しかし勘定奉行にして海防掛を兼ねる要路の一人が、この一大事を全く知らぬとは、余りに迂闊と言わねばならぬ、と。原文原文
病人の再起しないことを知りながら薬を投ずる心持ちか。原文
身辺の不安が刻一刻と迫るのを自覚し、最後の決心をしたのか。原文
「そは揣摩の限りでない」。原文
推し量る術がない、と蘇峰は筆を止める。原文
意見書の末尾に、川路はこう書いた。原文
夷狄が承知しても国内の人気は不穏で、「九十人餘之堂上方、關白殿え推參いたし候類」の甚だしい弊害が案外に起きるかもしれない。原文
「墨夷之一條、差臨候事ながら、夫よりも今一段之御急務」。原文原文
直弼は大老就任以前から、長野主膳に与えた書中で、川路を「奸惡」の者と明言していた。原文
川路側の人々も、彼を老獪で胸中測り難いと見ていた。原文
その川路がこれほど思い切った上書を出した理由はしばらく措くとして、これが井伊に一掃政策を断行させる近因となったことは間違いない事実だ、と蘇峰は書く。原文原文
西丸留守居、席次二十等
五月五日、召状。原文
六日、西丸留守居に転じた。二千石高、諸大夫席ではある。原文
だが全くの空城の番人で、職俸はもとより席次も二十等下がる閑職だ、と蘇峰は記す。原文原文
川路の伝記はこう伝える。原文
封事がたまたま大老の一瞥を経た。原文
堀田が将軍に呈し、将軍が大老に下したのではないか、と原注は推す。
大老は大いに怒った。原文
「彼れの地位にて、斯る大事を建言するとは、越權の所爲、寸時も捨置がたし」。原文
あの地位でこれほどの大事を建言するのは越権だ、片時も捨て置けない、と。原文
どんな罰にも処そうという勢いを、側に座した閣老、おそらく堀田が百方なだめ、貶遷に止めた。原文原文
正鵠を外れない観察であろう、と蘇峰は言う。原文
ただ川路は京都行きで頗る不評判だった。原文
不成功の責任者を求めるなら、次席ではあるが岩瀬忠震を第一に置くべきだ、と蘇峰は言う。原文
堀田に京都行きを勧め、文書一切を任じていたからだ。原文
それなのに世間が川路のみを咎めたのは、小策を弄し過ぎたためではないか、と蘇峰は推す。原文原文
その不評判の一場面を、田安附家老の水野忠徳が語っている。原文
「左衞門尉も此度は最早外轉にもなるべきか」。原文
川路もこのたびは外へ転じるだろう、と。原文原文
京都での失策が多く、それで事を誤ったことも少なくない。原文
岩瀬忠震がその次第を詳しく書き記し、堀田の心得にと差し出した。原文
堀田は深く考えず関東へ廻した。原文
閣老衆も熟覧せず、京都から廻った書付(文書)と一緒に評議衆へ下げた。原文
三奉行、すなわち勘定・町・寺社の奉行が列座する席で披見となる。原文
兄の不行届を書き顕したものである。原文
聞く者も心底を察して笑止に堪えず、それぞれ事にかこつけて座を立ち、残る者は少なくなった。原文
「左衞門尉が不束も包むによしなく、閣老衆の疎鹵も思ひやられ候」。原文
川路の不行き届きも隠しようがなく、閣老衆の粗雑さも思いやられる、と水野は結んだ。原文原文
ならばあの上書は「先ずれば人を制する」ものとして出したのではないか。原文
これも多少理由のある観察だ、と蘇峰は付け加える。原文原文
一方、川路と京都行きを共にした岩瀬忠震は、五月五日付で橋本綱紀にこう書いた。原文
「川司農へ今日突然鶴書降り申候」。原文
浅野泉州も召されたようだ、駿府市尹の大久保氏は一昨日召され、これは禁裡附か、とも。原文
紀州養君(将軍のあととり)説を建白(意見書の提出)した松平正之などでは、朝三暮四だ、と。原文
岩瀬も確定の事実としては前知していなかったのだろう、と蘇峰は読む。原文原文
左遷は川路にとどまらなかった。原文
同じ五月六日付で、大目付(上級監察役)の土岐頼旨が大番頭(江戸城の警備隊の長)に転じた。原文原文
井伊の側用人、宇津木景福の書状はこう伝える。原文
「西印は思召通りに御決評に相成候由、不日御發し相成候趣」。原文
西丸の継嗣は大老の思召通りに決まり、近日発表される、と。原文
そうなれば「隱謀之方、一時に崩れ立候樣」。原文
陰謀の側は一時に崩れ立つだろう。原文
将軍に毎々召され、「日々御威光盛に相成、御城內も一變可致勢ひ」。原文
日々威光が盛んになり、城内も一変しそうな勢いだ、と。原文原文
九日付では、川路と土岐の左遷、浅野中務の召し出しにより「同志之衆は色を失ひ、忠義之徒は雀躍、營中靜肅に相成候」。原文
反対派は色を失い、味方は小躍りし、城中は静まった。原文
残党を刈り尽くすつもりだが、一時に縛ると御用に欠けるので、追々に洗い清める思召だ、という。原文原文
井伊家の記録も並ぶ。原文
五月七日、直弼一人が召され、養君は紀州に、堀田は京都で不行届につき御役御免と思召との上意があった。原文
紀州問題はすでに確定し、堀田の退職も時間の問題となっていたと判る、と蘇峰は書く。原文
ただ、悉く家定の発意のように記してあるが、何れが主動者で何れが受身者かは分明でない、と。原文原文
五月九日、七つ半時、すなわち午後五時に薬師寺筑前守が来て、六半時、午後七時まで話し、湯漬が出た。原文
井伊に迎合して反対論者を陥れようと奔走する者が、この間に少なくなかった、と蘇峰は見る。原文原文
五月十二日、直弼はまた一人で御目見し、外夷の取り扱いと養君の取り極めについて内意を受けた。原文
宇津木の別の書状によれば、将軍は「奸侫人共恐敷ものは無之」と嘆息した。原文
奸佞の者ほど恐ろしいものはない、と。原文
役替はしばらく見合わせ、将軍の賢明を衆人が知った上で取り除く方が威光が輝く、との上意。原文
宇津木は一日も早く西丸を取り極めねば悪計が測り難いと申し上げ、五、六日のうちにも発表したいが、折悪しく松平忠固と久世広周が引き込んでいて都合が悪い、と伝えた。原文原文
反対の側からの声もある。原文
「正論直言之者被忌嫌候て、旣に過日土岐丹波、川路左衞門、鵜殿民部抔、有志之御役人追々轉役被仰付」。原文
正論直言の者が忌み嫌われ、土岐、川路、鵜殿など有志の役人が次々に転役を命じられた、と。原文
「一統惶驚仕候」。原文
一同が驚き恐れている。原文
岩瀬も遠からず御免との風説があるとも。原文原文
六月十八日付、島津斉彬から川路への手紙。原文
「此節御轉役之よし驚入申候。併し加樣之御時節、却て御安心と存候」。原文
このたびの転役には驚いた。原文
しかしこういう時節には、かえって御安心と思う、と。原文
これまで厚く世話になった礼を述べ、末尾に「乍末御令室へ宜敷希申候」。原文
末ながら奥方へよろしく、と添えた。原文原文
斉彬のような人も、川路の転職には意外の感をなしたであろう、と蘇峰は記す。原文
そして「川路は畢竟井伊の最初の血祭りに供へたるものに過ぎなかつた」と書く。原文
最初の犠牲者、ということだ。原文
ここから井伊の一掃政策は、追々と実行され始めた。原文原文
五月三日に書かれ、六日に空城へ送られた一通の封事。原文
それは病人に投じた薬だったのか、先んじて人を制する一手だったのか。原文
蘇峰が推し量りを止めたその問いを、暑気の中で慰問状を開く西丸留守居の姿とともに、いま一度考えてみてもよいのではないだろうか。原文原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』民友社、1935年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1223976 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻2』PID 1046669 |
| 日付・人名 | 本文の日付 9 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 10 名のうち 9 名が『維新史料綱要 巻2』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
