養君発表の六月朔日 ―― 安政五年、名を伏せた幕府と川に阻まれた京都の返書

あらまし

安政5年(1858年)6月1日、江戸城では、大老井伊直弼と老中から、将軍の跡取りを血筋から迎える考えが内々に伝えられた。同じ日、徳川慶喜は小石川の屋敷に実父の徳川斉昭を見舞っている。一橋の慶喜か、紀州の徳川慶福か。誰を迎えるかは、伏せられたままだった。

営中の評判は一橋に傾いていたが、幕府の内側ではすでに慶福で決まっていた。名を伏せたのは世間の反発を恐れてわざと誤解させたのだろう、と徳富蘇峰は見る。5月6日に大目付から大番頭へ移った土岐頼旨も、一橋に決まったと信じて喜んだ。松平慶永から別の内話を聞かされると、仰天して泣き出すばかり。

斉昭のもとでは、慶喜の家臣平岡円四郎と斉昭の家臣安島弥次郎が相談を凝らす心づもりだった。ところが斉昭夫妻はひどく気落ちし、いつもの激しい議論も気力も出ない。慶喜も黙ったままで、安島は大きく失望した。蘇峰はこれが真相だろうと記す。一橋派は最後の手段として、山内豊信から三条実万を通じ、朝廷の意向で一橋を指名させようとした。慶永はこのころ開国を進める考えに立ち、斉昭には意見書を書き直さず前の主張を通せと勧めている。

6月5日の手紙で慶永は、いま書き直せば相手方を安心させ、京都を欺く口実になると書く。斉昭と徳川慶恕の意見書こそ国に残された細い命綱だ、とも言い切った。京都では条約調印をめぐる空気が日ごとに険しくなる。井伊は腹心の長野義言を京都へ送った。長野は5月中旬の書状で、天皇を木曾の山中にかくまう土地まで選んであると報じている。

長野の胸にはすでに安政大獄のもとが育っていた、と蘇峰は書く。京都の政治の中心は、太閤でも関白でもなく天皇その人だった。幕府の意思を朝廷で通そうとする九条関白の側と、逆向きの三条実万。6月4日、本多忠民から朝廷の取次役へ、名を伏せたまま跡取りの件が上奏される。京都からは形だけの祝いの言葉が返り、幕府にはそれで十分だった。

ところが、承認の返書がなかなか届かない。雨続きで川が渡れないためかと、15日には道中奉行本多加賀守へ命じ、手代を早駕籠で走らせた。それでも18日の公表には間に合わず、7月1日には返書を扱った右筆の志賀が自ら命を絶つ。井伊の側は一橋党が隠したと言い、一橋派は井伊に叱られたためと言った。跡取りの一件そのものは大きな面倒もなく通った。書状の箱がどこで止まっていたのかは分からないままである。

この記事からは、名を伏せた発表から返書の遅れまでが、『昨夢紀事』と長野義言の書状、『公用方秘録』からたどれる。

目次

安政五年(1858年)六月朔日。原文
江戸城に例のとおり登城(江戸城に出仕すること)した御三家(将軍家に近い尾張・紀州・水戸の三家)(尾張は断り)、御両卿、溜詰の面々が居残りを命じられた。原文
大老(幕府の最高職)井伊直弼いいなおすけと老中が顔を合わせ、一つの達しを下す。原文原文

原文『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』第9章 NDL コマ 116

六月朔日御登城如御例、今日御三家(尾張殿御斷り)御大老御老中御逢、左之通り御逹し有之し由

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達しはこう言う。原文
血筋の中から養君(将軍のあととり)を立てるお考えである、いずれ表立って仰せ出されるが、まず内意だけを伝えておく、という意味である。原文
誰を、とは言わない。原文
一橋家の徳川慶喜か、紀州の徳川慶福か。原文原文

この日、営中の評判は「橋とも紀とも分り方なけれど、多くは橋といへるよし」だったと蘇峰は記す。原文
実のところ幕閣(幕府の上層部)の内実は、すでに慶福に決していた。原文
それでも名を伏せたのは、閣僚が世論の反抗を憚り、わざと誤解させるようにしたのであろう、と蘇峰は見る。原文原文

歓んで寝られぬ夜

誤解の深さを示す一幕を、蘇峰は『昨夢紀事』から引く。原文
過日まで大目付(上級監察役)で、五月六日に大番頭(江戸城の警備隊の長)へ外転した土岐頼旨が、松平慶永まつだいらよしながに会って言った。原文
「僕已に疎外に転じ候へど橋公の立せられたるを承候へば、死して遺憾あることなし」。原文
自分は中枢から外されたが、一橋公が立たれたと聞いては死んでも悔いはない、という意味である。原文
昨夜は詰番であったが、あまりの有難さに歓んで寝られなかった、とも語った。原文原文

慶永が前日に耳にした「備中殿云々」の内話を伝えると、頼旨は仰天して泣き出すばかりであったという。原文
大目付を務めた人物でさえこの通りなのだから、世間が一橋に確定したと思い込んだのも異とするに足りない、と蘇峰は書く。原文原文

同じ六月朔日、徳川慶喜とくがわよしのぶは小石川の邸に実父の徳川斉昭とくがわなりあきを見舞った。原文
慶喜の親臣平岡円四郎と斉昭の親臣安島弥次郎は、父子同席の上で幕閣の形勢を述べ、この際「姦児」を除くべき次第を申し立てて謀議を凝らすつもりであった。原文
ところが「老公御夫妻共に、痛く御力落にて、御暴論も御英気も出ざれば」と『昨夢紀事』は伝える。原文
斉昭夫妻はひどく気落ちして、いつもの激論も気力も出なかった、という意味である。原文
慶喜も気の毒に思って何も言わず、安島は大失望し、聞いた平岡も嘆じた。原文原文

原文『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』第9章 NDL コマ 118

昨日は老公御夫妻共に、痛く御力落にて、御暴論も御英氣も出ざれば

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中根雪江は、斉昭がかねて慶喜の西城入りを恐れ多いことだと文書に書きながら、内心では望んでいたと見ている。原文
水戸派の史家には打ち消す者もあるが、恐らくこれが真相であろう、と蘇峰は記す。原文原文

神州一縷の命脈

一橋派は最後の手段に出た。原文
山内豊信やまうちとよしげから、その親縁である前内大臣三条実万さんじょうさねつむの手を借り、朝旨によって一橋を指名させようとしたのである。原文原文

慶永の動きも変わった。原文
彼は橋本左内はしもとさないや横井時存の意見を採り、当時は開国進取の論であった。原文
この一点では斉昭や尾張の徳川慶恕とくがわよしくみの条約否認論と相容れなかった。原文
以前は斉昭の答申書の不穏な箇所を引き直させ、一橋問題と交換的に幕閣のために斡旋しようと閣老の一、二と談じていた。原文
ところが今は逆に、斉昭に向かって引き直しを受け容れず前議を固執せよと勧めている。原文原文

原文『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』第9章 NDL コマ 117

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六月五日付で慶永が斉昭に送った書には、今引き直せば「姦者の方は上都合にて極安心致し」、これを口実に京都を欺き、仮条約の上で奏聞に至ることも必定だろう、とある。原文
そして「両公の御建白(意見書の提出)は、実に神州一縷の命脈」と言い切った。原文
斉昭と慶恕の建白書こそ、この国に残された一本の細い命綱だ、という意味である。原文
建白を槓杆に幕閣を改造しようとしたか、直接一橋問題に資そうとしたか、と蘇峰は二つの見方を並べている。原文
局面転換の方便であった、とも読めるかもしれない。原文

木曾山の噂

目を京都に転じると、条約調印をめぐる人気は日に日に険悪であった、と蘇峰は書く。原文
井伊は腹臣の長野義言を京都に送り、島田龍章と策応させた。原文
長野が五月中旬、江戸の井伊に上げた書状がある。原文原文

御所の内は騒がしく、陰謀の側は左右大臣を通じて関東を悪く申し上げているという。原文
そして「京都へ弓を挽可申は必定也。其時は主上は木曾山之内に御かくまへ可奉申上地を撰置候」。原文
幕府が京都へ弓を引くことになるのは必定で、その時は主上を木曾山の内にかくまい奉る土地を選んである、というのである。原文
徳川慶恕が左大臣近衛忠熈と策動しているとし、井伊を上京させて御所内で害する悪計まであると報じた。原文原文

長野は九条関白(天皇を補佐する最高の官職)に向かって、関白に敵対する者が出れば「取鎮め候事、武家の持前」と言い切った。原文
鎮めるのは武家の役目だ、という意味である。原文
この書簡(手紙)を見れば、長野の胸中にすでに安政大獄(井伊直弼が反対派を処罰した事件)の酵母が生息していたことがよく分かる、と蘇峰は書く。原文
「斯る観察眼では、如何なる人も謀反人と認められても致方はあるまい」とも評している。原文原文

十八歳の富小路敬直が御児として御前に出るのを、富小路家に諭して辞退させようとしたともある。原文
有志者と主上の間の連絡役を務めたためであろう、と蘇峰は推す。原文
養君一件は早々に発表するのがよい、との九条関白の内命も伝えた。原文
三条実万、中山忠能なかやまただやす、久我建通こがたけみちが再応勅使(天皇の使い)を関東へと申し出たが、関白は先例がないと押し切る胸算であった。原文原文

原文『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』第9章 NDL コマ 123

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公武合体を祈る人

三条実万は、井伊と旧知の間柄であった。原文
井伊がまだ一個の溜間詰大名であった頃から二人は書信を往復し、井伊家は三条家の財政に若干の援助もしていた。原文原文

三条はこの頃の書状で、公武一体を祈ると書いている。原文
どうか公武が一体となって国の恥にならぬよう、永く安全な策を祈る、という意味である。原文
彼は幕府を窮地に陥れて朝権を回復しようとする陰謀家ではなかった、と蘇峰は書く。原文
九条関白側は幕府の意思を朝廷で通そうとし、三条は朝廷の意思を幕府で通そうとした。原文
向きが逆なだけであった。原文

長野義言は「長野主馬」の名で三条家にも内使を差し向け、自分は生来ひ弱で学も術もない、と弁疏している。原文
しかし当時の大勢は、こうした弁疏で京都と江戸の確執を一掃できるものではなかった、と蘇峰は見る。原文原文

原文『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』第9章 NDL コマ 125

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昼夜、宸襟を悩ます

京都の政治の中心点は太閤でも関白でも左府でもなく、恐れながら主上その人であった、と蘇峰は書く。原文
主上が近衛忠煕らに与えた宸翰はこう言う。原文
井伊が大老(幕府の最高職)になったのは「何れ押返し、関東の趣意通り可致所存と愚察候」。原文
関東の意向を押し通す構えだと察する、という意味である。原文
三月二十日に申し渡した通りに朝議は決定しており、再びの勘弁はない、と続く。原文原文

万一関白が弱くなっても、という意味で、近衛らに精力を付けよと求めた。原文
九条関白には、関東で調印を決めた上で届けるだけになっては「誠に誠に歎かは敷、且大変に候」と書き送った。原文
これを拝見すると未然を透視されたような心地がする、と蘇峰は記す。原文原文

原文『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』第9章 NDL コマ 129

との宸翰を賜りたるを拜見しては、宛も未然を透視遊ばされたる心地がする

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九条関白は主上の趣意を切紙で申し達した。原文
主上は昼夜心を悩まし、寝食も安まらず遊宴も廃しておられるほどだ、という。原文
これほど緊張しきった京都を軽々に看過した関東の失策は言語道断だ、と蘇峰は断じている。原文原文

川々を突き破る御状箱

六月四日、本多忠民から両伝奏(取り次ぎ役)宛に養君の上奏が出た。原文
将軍が御年頃になったので、近々血筋の内から養君を仰せ出される。原文
副申は天明の先例、すなわち十代家治が一橋家から家斉を迎えた例にならい、名は「御隠密」で伝えないとした。原文
京都から白紙の承認を得ようとしたのである。原文原文

名を避けた理由を蘇峰は二つ挙げる。原文
第一に、朝廷が外交の局に当たる堀田正睦に示した年長・賢明・人望の三資格に合致しない虞れ。原文
第二に、朝廷内の一橋派が沸騰する虞れ。原文
三条実万が山内豊信に「壅滞の難事有之」と書いた苦心はあったが、結果は「祝着の次第」という賀詞だけの、御座なりの承認であった、と蘇峰は書く。原文
幕府にはそれで沢山であった。原文原文

意外だったのは承認状の遅れである。原文
雨天続きで川々が差し支えたためかと、十五日、道中奉行(街道を管理する役)本多加賀守に命じて迎えの人を出し、「川々突破り、御状箱(公式の手紙を入れる箱)是非共著致候様」と手代を早駕籠で走らせた。原文
川を突き破ってでも状箱を届けよ、という意味である。原文
それでも十八日の公表の機会は逸した。原文原文

これだけが遅れたのは「何とも不審成事」と『公用方秘録』は伝える。原文
七月一日、この返書を扱った右筆の志賀が自殺した。原文
井伊側は一橋党が返書を隠匿させた結果と言い、一橋派は小過で井伊に叱責されたためと言う。原文
堀田が命じて隠匿させたという噂は信ずべきでない、と蘇峰は書く。原文
堀田は六月朔日に御養君御用掛(担当役人)を命じられて既成事実に承服し、全力を条約に注いでおり、そうした隠謀のできる人柄でもなかったからだ。原文原文

名を伏せた発表、御座なりの承認、川に阻まれた状箱、そして一人の右筆(文書を書く役)の死。原文
養君問題そのものは「比較的大なる面倒なく」通過した。原文
その名がようやく口にされるまでに、御状箱一つがどこで足止めされていたのか、蘇峰も「真に怪事だ」と書くほかなかった。原文原文

この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』民友社、1935年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1223976
日付・人名本文の日付 9 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 9 名は、元本との逐語一致で確かめています。『維新史料綱要 巻2』の項目には一致するものがありませんでした。

本記事は『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物三条実万中山忠能久我建通井伊直弼山内豊信徳川慶喜徳川慶恕徳川斉昭松平慶永橋本左内年1858安政