あらまし
安政5年(1858年)8月8日の夕方、水戸藩京都留守居の子、鵜飼幸吉が、天皇の勅諚を懐に京都を発ちました。わざと汚した駕籠に乗り、大坂蔵屋敷の小役人になりすまして、東海道を江戸へ急ぎます。
幸吉の覚書によれば、勅諚は綸旨と同じ重みを持つ天皇の言葉で、一晩も手元に留めず水戸家へ渡せと命じられていました。勅許を待たずに条約を結んだ幕府に天皇は激しく憤り、位を譲るとまで口にしたといいます。御三家の触元である水戸へ伝えれば、諸大名へ行き渡るという見通し。水戸の立場は重く大きかった、と蘇峰は書きます。
京都では飛脚問屋の大黒屋庄次郎がひそかに長野主膳に買収され、有志の書状を幕吏に流していました。急ぎの出発で庄次郎を通さなかったことが、偶然にも幸吉を救った、と蘇峰は見ています。勅諚の写しは、尾張・越前・薩摩など13の大名にも、縁のある公家から送られることになりました。
同じ8日、梅田雲浜は旧主酒井家の家老に手紙を書き、尾張・水戸・越前の処分の理由を問い、勅命に背いた役人を除けという勅命の中身を伝えています。本物の勅諚とは文句も意味も違い、正議派の本当の狙いはこちらにあったのだろう、と蘇峰は読みます。
薩摩の西郷隆盛の動きについては、二つの記録が食い違います。蘇峰はどちらも鵜呑みにできないとし、8日に渡された勅諚の中身を4日に発った西郷が知るはずはないと述べています。
幸吉は16日の深夜に江戸へ着きました。水戸藩主の徳川慶篤は沐浴して勅諚を拝し、幸吉に紋付の帷子を与え、翌朝には斉昭の意向を確かめて請書を書きます。幸吉はそれを携えて27日に京都へ戻りました。勅諚の下賜は水戸にとってありがたくも迷惑なものだった、と蘇峰は言います。
勅諚が京都から江戸の水戸家へ届くまでを、鵜飼幸吉の覚書、梅田雲浜の手紙、茅根泰の筆記、世古格太郎の銘肝録からたどれます。
安政五年(1858年)八月八日、午後六時から七時のあいだに、一挺の駕籠が京都を出た。原文
垂れの汚れた、わざと見苦しくしつらえた駕籠である。原文
乗っているのは鵜飼幸吉知明、三十三歳。原文
水戸京邸留守居(藩の外部との連絡役)の鵜飼吉左衛門知信の子で、剣と砲の術に通じ、禅を相国寺の大拙和尚に学んだ「亦是れ一丈夫」であったと蘇峰は記す。原文原文
懐には白木の状箱(公式の手紙を入れる箱)。原文
供の士は一人だけ。原文原文
表向きには、翌九日卯の半刻、午前七時ごろに中山道を下る、と言い放ってあった。原文
その一方で従卒を伏見に走らせ、大坂蔵屋敷の小吏小瀬伝右衛門が江戸へ下るという先触人足状を伏見の人足継立所に出し、六地蔵を経て大津から東海道各駅へ手配させた。原文
幸吉は小瀬になりすまして東海道を行く。原文
井伊派の手配は「頗る厳重」で、無事に届くかどうかは慎重を要した、と蘇峰は書く。原文原文
この急ぎぶりが、偶然に幸吉を救った。原文
京都高倉通り御池下る町に、三度飛脚問屋の大黒屋庄次郎がいた。原文
江戸日本橋通戸物町の島屋伝右衛門の京都店で、水戸藩の御用を勤めていた男だが、いつの間にか長野主膳に買収され、有志の機密文書はこの手から幕吏へ渡っていた。原文
鵜飼父子はそれを知らなかった。原文
ただ急な場合で呼ぶ暇がなく、継立所に直接託したために難を逃れた、もし庄次郎に頼んでいたら勅諚どころか鵜飼の一命も危うかったろう、と蘇峰は見る。原文原文
勅書伝達と水戸の重責
出発の朝、八日の五つ半時、午前九時ごろ。原文
月番の武家伝奏(朝幕の連絡役)万里小路正房が、里亭に吉左衛門を招いた。原文
吉左衛門は六十一歳、病気がちであったため、子の幸吉が代わって東下の任に就く。原文原文
口達は短い。原文
重い叡慮であるから道中を固く警固し、間違いなく水戸殿へ渡せ、という。原文
勅書を受け取ったら「一夜たりとも、留候儀不相成」。原文
一晩でも手元に留めてはならない、と添えられた。原文原文
これより先、午前二時ごろに参上した吉左衛門は、明日勅諚を渡す評決になったので直ちに持ち下り、水戸殿へ直接渡し、徳川斉昭にもよく申し上げよ、と告げられていた。原文
近衛の口達の覚によれば、調印について叡慮を悩まされ、「実以徳川家而已ならず、天下之御一大事」であり、水戸・尾張・越前の「精忠」には深く満足するが、違勅は容易ならぬ、この叡慮を立て「徳川家之御補助有之度」、たとえ謹慎(外出や交際を禁じる罰)中でも斟酌なく尽くせ、というものであった。原文原文
幸吉の覚書には、もう一つ注意すべき説明がある。原文
この勅書は「主上より君公御始え被仰含候御覚書之姿」で、伝奏(朝廷と幕府の連絡役)の添翰もなく、綸旨の紙に書かれていないというだけで「実は綸旨御同様」だという。原文
そして水戸家は御三家(将軍家に近い尾張・紀州・水戸の三家)の触元で、将軍家に継がれる立場であるから、水戸へ仰せ含めれば諸大名へ行き渡る見通しだ、と。原文
水戸の立場は「重且大なるものがあつた」と蘇峰は記す。原文原文
勅諚経緯と譲位発言
幸吉の覚書は、勅諚にいたる経緯も伝えている。原文
帝は「殊之外御憤激」であった。原文
三家をはじめ諸大名の赤心を聞いたうえで決めよと申し置いたのに伺いもなく調印した、「朕は有れども無も同様之事」、伊勢神宮に対しても申し訳ないから「位を譲、引込可申」と言われた。原文
自分がいてもいないのと同じだ、神宮に申し訳が立たぬから位を譲って引き籠もる、という発言である。原文原文
蘇峰はこれを「如何にも恐悚の至り」と受け、独り帝に社稷を憂えさせるとは、幕府の老中(幕府の重臣)たちはどうなのか、と問う。原文原文
この日、九条は参内(御所へ参上すること)しなかった。原文原文
九日、九条は参内して「御尤之御次第にて、ケ様無之候ては、皇威も立兼候」と申し上げた。原文
もっともなことで、こうでなくては皇威も立たない、と。原文
これは幸吉の出発後に父吉左衛門が急使で送った書き添えで、九条の言が本当なら「只だ当坐だけのこと」であった、と蘇峰は言い切る。原文原文
十三国主への写しと、幕府への釈明
勅諚は八日に水戸、九日に幕府へ下り、さらに尾張、越前、加賀、薩摩、肥後、筑前、安芸、長門、因幡、備前、津、阿波、土佐の十三国主(その国を治める大名)へ、縁故のある公家から写しが伝えられることになった。原文原文
写しに添えられた書状は、さらに深く叡慮を悩まされた、と述べる。原文
「実々は御内勅」であるから極密にせよ、「当時嫌疑之時節故、御覧後右一紙御返し」のこと、と結ぶ。原文
今は疑われやすい時節なので、読んだらこの紙を返してくれ、という。原文原文
内大臣一条忠香の日記にも、十六日に縁家の細川越中守・池田内蔵頭へ書付(文書)を添えて京留守居を呼び、急使で送った旨があり、他の面々へもそれぞれの手づるで伝わったのだろう、と蘇峰は推す。原文原文
一方、幕府の側へ宛てた一書は、やむを得ぬ事情があった、文書では角が立って聞こえるかもしれない、と弁じている。
蘇峰はこれを「如何にも力弱き釈明」と呼び、九条の意を受けて、心ならず勅諚降下を受け入れた様子が「ありありと見え透いてゐる」とする。原文
鵜飼に渡された口達と比べると「到底同一人より出で来る可しとは思はれぬ程の相違」がある、と蘇峰は書く。原文原文
梅田雲浜の酒井家への手紙
同じ八日、梅田雲浜は旧藩主酒井家の家老(藩の重臣)坪内孫兵衛に長い手紙を書いた。原文
昨七日、帝が勅書をもって列卿を召し、九条・鷹司・近衛・三条、中山忠能、議奏(天皇の側近く仕える役)、伝奏、掛かりの諸卿が残らず参内して廟議が決した。原文
九条はかねて井伊直弼と同意で関東に内通していたが、昨日は一言も出さず畏縮していたという。原文
実際には九条は故意に欠席していた、と蘇峰は注記する。原文原文
雲浜が伝える勅命は三箇条である。原文
尾張侯・水戸侯・越前侯を何の仔細で押し込めたのか言上せよ。原文
勅命に背いて条約を調印し天下を誤った「姦邪之役人共」を、尾張の慶恕と茂徳、水戸の斉昭と慶篤、同志の諸侯(大名たち)に伝えて速やかに除け。原文
尾水両家から天下有志の諸侯の存寄を速やかに朝廷に言上せよ。原文
「姦邪之役人共」が井伊直弼を指すのは言うまでもない、と蘇峰は言う。原文原文
これを本物の「御趣意書」と照らせば文句も意味も違う。原文
しかし正議派が勅諚降下を運動した主な目的は、恐らく御趣意書のほうにではなく、こちらにあったのだろう、雲浜としては「語るに落ちたるもの」だ、と蘇峰は見る。原文
正議派の上下には至密の脈絡が貫通しており、九条と井伊の仲間でも同様だったことを忘れてはならない、と蘇峰は記す。原文原文
手紙には、尾張から二千余人が二手に分かれて慶恕を国元へ迎えに出発し、帰国すればすぐ上京する、大道寺ら歴々が二百人ばかりで来ている、という話もある。原文
雲浜は、藩主酒井忠義が井伊と「無二の御合体」であるのは「甚御危き事」だから、家老深栖典膳をはじめ一同覚悟を立ててほしい、放逐の身で申すことではないが「胡馬北風に嘶く之情不能已」と結ぶ。原文
北の馬が北風に嘶くような故郷への情を抑えられない、と。原文
酒井家のために危ぶんだことが、やがて自身の禍となった、と蘇峰は書く。原文原文
西郷隆盛の急行と内勅の経緯
勅諚の下賜は、水戸にとって「難有迷惑」であった、と蘇峰は言う。原文
その事情を物語るのが薩摩藩の西郷隆盛の動きである。原文
西郷は八月四日に京都を発って江戸へ急行した。原文
二日発七日着ともいう。原文
当時としては最大急行で、それだけ重要な用事だった、と蘇峰は推す。原文原文
鈴木大の「賜勅始末」では、西郷は日下部伊三次のやり方を危ぶんで「道四日半」で下り、安島に「足下何んぞ迂濶、日下部の如き者を、京師に使せしむるや」と迫った。原文
なぜあんな男を京都に使いに出したのか、と。原文
安島は自分が遣わした者ではないと答え、西郷は京へ戻って止めようとしたが間に合わなかった。原文
海江田信義の「実歴史伝」では逆に、西郷が月照から内勅を託されて下り、安島が幕威を恐れて受け取らず、西郷が「嗟乎水藩既に人なし」と嘆いて海江田に奉還を頼み、海江田は五昼夜で京都へ入った、とある。原文原文
両者は両立しがたい。原文
前者は水戸人が慶応二年の獄中で編み、後者は明治二十五年ごろの出版で、どちらも鵜呑みにはできない、と蘇峰は見る。原文
勅諚は八日に鵜飼父子へ渡されたのだから、四日に発った西郷が内容を知るはずはなく、彼の「内勅」は近衛家から他日の含みを授かったものにすぎない。原文原文
小石川の深夜
幸吉は八月十六日深夜、江戸に着いた。原文
小石川春日町の旅人宿長右衛門方に旅装を下ろし、小石川邸の安島帯刀を訪ねる。原文原文
慶篤の驚きは大きかった。原文
勅諚と聞いて急いで沐浴し、衣を改めて拝した。原文
そして幸吉に「遠路の処、急行苦労に覚ゆるぞ、さぞ暑かつたであらう、是を著せよ」と、自分の紋付の帷子を与えた。原文
慶篤の近臣茅根泰の筆記によれば、評議のうえ七つ時過ぎに執政(政務を執る役)と役所一同が出仕し、駒込の斉昭に内々伺ったところ、主君からの重命だから受けよとの思し召しで、慶篤は着替えて開封し、茅根が読み上げ、一同「恐悚感激」した。原文原文
翌朝、駒込へ人を走らせて斉昭の旨を請い、慶篤は自ら請書を書いた。原文
深く恐れ入る、一家の面目で泣けるほどありがたい、成否はともかく力を尽くして追って報告する、という。原文
慶篤はさらに安島を通じて斉昭に告げ、重臣を召して奉行の順序を審議し、奥右筆(文書を書く役)頭取高橋多一郎らを水戸へ遣わして国元の家老の意見を諮った。原文原文
幸吉はこの請書を携えて二十七日に京都へ戻り、万里小路正房に復命した。原文
思えば出立の夜、京を出てすぐの日の岡峠で、深笠に黒衣の旅僧が幽かな声で幸吉を呼び止めていた。原文
三条家の庶流阿野公誠が三条実万の命で、口達に漏れた点を伝えに来たのだという。原文
日下部伊三次も謄本を受け、出水の遅れを慮って先例どおり中山道を下った。原文
世古格太郎の「銘肝録」は、八日の昼に鵜飼宅を訪ねたときの様子も残す。原文
大坂から昨日上ってきた吉左衛門の妻は、夫が斉昭蟄居(家にこもる罰)の折に三年も禁錮され、ようやく再勤したばかりでまたこんな大事を仰せつかった、「此末如何ならん」と数行の涙を流し、世古も涙を浮かべて帰った。原文原文
村田氏寿は橋本左内へ、この降勅は否塞を通じ皇道を挽回し「公武御一致、皇国永世御安全の道」を開く盛挙だ、と書き送った。原文
江戸で「難有迷惑」と当惑した水戸と、「一家の面目」と泣いた水戸は、同じ一つの家である。原文
そのあいだを、見苦しい垂れ駕籠が八日間かけて東へ下った、と考えることもできるのではないだろうか。原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』民友社、1935年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1223987 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻3』PID 1041909 |
| 日付・人名 | 本文の日付 1 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 19 名のうち 18 名が『維新史料綱要 巻3』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
