あらまし
安政5年(1858年)10月、水戸藩は井伊側の取り締まりに独力では耐えられないと見て、4人の藩士を各地の藩へ送り出します。10月8日の明け方、千住大橋の下から1艘の舟が出ました。
蘇峰によれば、井伊は京都に幕府へ不利な空気が満ちているのは斉昭の働きかけの結果と見当をつけていました。7月5日の斉昭父子らへの処分も、京都へ力を振るうための準備。8月8日に天皇の命令が水戸に下り、その知らせが17日に江戸へ届くと、水戸への圧迫は幾重にも厳しくなり、京都への見張りも鋭くなります。
9月15日付で鵜飼知信が日下部伊三治に送った手紙には、井伊の屋敷へ切り込むという意味の文句がありました。これを読んだ井伊側は、押さえつけ、罪を組み立て、取り調べで追い込む3つの策を一段と深く進めたと蘇峰は推し量ります。連座した者は上は親王から下は百姓町人まで100人余り。京都で調べの済んだ者をあえて江戸へ引き取って改めて調べたのは、大きな企ての糸口をつかみたかったからだと蘇峰は断じています。
江戸での探索は、高松藩士で藩を抜けた長谷川惣右衛門の足取りを追う形で進みました。海保帆平は心当たりがないと断り、疑うなら自分の家に泊まって調べよと答えたといいます。10月15日には幕府が水戸藩に杉浦仁右衛門の引き渡しを求めましたが、藩は先に出かけたまま帰っていないと返しました。
派遣を言い出したのは高橋多一郎と金子孫二郎。選ばれたのは住谷寅之介、大胡聿蔵、矢野長九郎、関鉄之介の4人で、外からの援けがなければ成り立たないという判断でした。10月11日、住谷と大胡は南海・西海へ、矢野と関は北陸・山陰・山陽へ、名を変え身なりを改めて旅立ちます。
矢野と関は福井で話が進まないまま去り、鳥取、萩を回って翌年正月7日に帰り道へ。住谷と大胡は四国へ渡り、坂本龍馬らと会いましたが、これも実を結びませんでした。どれだけ得たかはすぐには決められないとしつつ、当時の各藩は井伊の勢いを恐れ、どちらにも付かずに様子をうかがっていたと蘇峰は見ています。矢野と関は2月に帰藩しました。
水戸が各地へ使者を出すまでの経緯と、その旅の行き着いた先を、高橋多一郎の10月2日付の手紙、関鉄之介の日録、世古格太郎の記録からたどれます。
千住大橋の纜
安政五年(1858年)十月八日の明け方。原文
千住大橋の下で、一艘の舟が纜を解いた。原文
乗っているのは水戸の関鉄之介と、前夜に小塚原で落ち合った住谷寅之介、大胡聿蔵、矢野長九郎の三人。原文
舟は竹内百太郎の周旋で、向島梅若祠のほとりの野樓へと逃れた。原文原文
そこへ小石川の水戸邸から鮎沢伊太夫、菊池為三郎、下野隼次郎が訪ねて来る。原文
「激論終日、西遊の事を議す」と関の日録にある。原文
内藤孝介と大和田作兵衛が旅装を整え、夜は平岩亭に身を避け、午前二時を過ぎて東西に別れた。原文
「是れよりして又故人を見ず」。原文
これより後、二度と旧友の顔を見ることはなかった、と関は書いている。原文原文
井伊大老(幕府の最高職)の手が水戸に伸び、水戸がそれに抗って四方へ使者を放つ。原文
蘇峰が「窮鼠猫を食む」の一句で始めるこの対抗運動は、こうして一艘の舟から動き出した。原文原文
赤鬼へ一発
蘇峰はまず、井伊直弼が安政の大獄を組み上げるまでの筋道をたどる。原文
井伊は四月二十三日の大老就任当初から、徳川斉昭一味の退治を使命と覚悟していた、と蘇峰は見る。原文
京都に幕府不利の空気が満ちているのは斉昭の手入れの結果であり、斉昭さえ退治すれば京都の騒ぎは自然に鎮まる、と見当をつけたのだという。原文
だから当初は、鷹司父子、近衛、三条実万といった京都の巨頭を手荒く処分するつもりではなかったようだ、と蘇峰は推し量る。原文原文
七月五日、井伊は徳川斉昭・慶篤父子らを処分する。原文
いずれも京都へ向けて力を振るう準備であった、と蘇峰は書く。原文原文
そこへ八月八日、詔勅が水戸に降り、幕府にも賜った。原文
その報が十七日に江戸に届く。原文
井伊にとっては「靑天の霹靂」、晴れた空に雷が落ちたようなものだった、と蘇峰は言う。原文
ここから水戸への迫害は幾層も厳しくなり、京都への監視の眼も鋭さを加えた。原文原文
老中(幕府の重臣)の間部詮勝が上京の途中で井伊に送った書中には、斉昭に切腹を命じよという文句さえあった。原文原文
決定打となったのが、九月十五日付で京都の鵜飼知信が日下部伊三治に与えた書簡(手紙)である。原文
そこには、赤鬼すなわち井伊の屋敷へ一発切り込む、という意味の文句があった。原文
これを読んだ井伊側はもはやここまでと腹を据え、「壓迫政策、羅織政策、鍛鍊政策」――押さえつけ、罪を織り上げ、取り調べで鍛え上げる三つの策を一倍深刻に励行した、と蘇峰は想像する。原文原文
京囚はみな京都町奉行(町の行政と裁判を担う役人)の手で審問が済み、書類も出来上がっていた。原文
それをあえて江戸に引き取って改めて吟味したのはなぜか。原文
大陰謀の端緒をつかみたい下心のほかにあるまい、と蘇峰は断じる。原文
この獄に連なった者は上は親王(天皇の子や兄弟)から下は百姓(農民)町人まで百余人に及び、その範囲の広さと処罰の厳しさは古今未曽有と称される、と蘇峰は記している。原文原文
江戸における幕吏の動きを、蘇峰は長谷川惣右衛門という一人の脱藩者を軸に描く。原文
長谷川は高松藩士であった。原文
高松は水戸の支藩でありながら、藩主松平頼胤は井伊に与して斉昭と相容れない。原文原文
世古格太郎の記録によれば、八月二十一日夕、京都の世古の寓居に六十ばかりの一士人が突然訪ねてきた。原文
長谷川である。
「讃水兩立せず、進退維れ谷る、故に脫藩す」。原文
讃岐の高松と水戸の板挟みで進退に窮したので、藩を抜けた、というのである。
翌日に三条通で再会し、河原町のある家で数刻語り合った。原文
鵜飼には嫌疑があるので泊まらず旅宿に泊まった、とも話したという。原文原文
江戸での探索は、この長谷川の足取りを追う形で進んだ。原文
幕吏は海保帆平の家に目を付けた。原文
間者の手先の勝蔵なる者が深川の剣客(剣術家)伊藤誠一郎を語らい、長谷川を差し出させようとした。原文
海保は心当たりがないと断り、勝蔵を呼び寄せて事情を語った。原文
長谷川は水戸から士民が大勢登った時分に来たことがあり、飯を振る舞った程度で匿ってはいない、疑わしければ我が家に泊まって探索せよ、と言ったという。原文原文
十月十五日には幕府が水戸藩に命じ、藩士杉浦仁右衛門を町奉行に差し出させようとした。原文
藩は翌十六日、「先頃他行いたし、今以罷歸不申」と答えた。原文
先頃出かけたまま、いまだに帰っていない、というのだ。原文
国元へも役人を下して尋ねさせる、と付け加えている。原文
蘇峰はこれらを「小鱗細魚」、小さな魚にすぎないとしつつ、幕吏の手は漸次その達すべきところへ伸びつつあった、と書く。原文原文
外援なくては
水戸は、井伊派の迫害が日一日と切迫するのを見て、独力では支えきれないと認めた。原文
そこで四方に同志を求めるべく、有志を諸藩に特派することになった。原文
発議したのは水戸藩の天狗党の牛耳を握った高橋多一郎と金子孫二郎で、藩の当路の有司も賛成したという。原文原文
特派員は住谷寅之介、大胡聿蔵、矢野長九郎、関鉄之介の四人。原文
住谷、大胡、矢野の三人はかつて藩の有志とともに小金駅まで押し出し、藩主の諭旨で水戸に退いていた。原文
関は越後水原にあって北地へ赴こうとしていたが、九月八日に水戸からの飛信で七月五日の斉昭・慶篤父子の処罰を知り、昼夜兼行で十七日に江戸へ還った。原文原文
高橋が十月二日付で関に送った手紙を、蘇峰は長く引く。原文
幕吏の残酷さと取り締まりの不当さは、鎌倉の世と変わらない、というのだ。原文
十五年来の水魚の知己の身の上を「紅衫血淚紛々」と書く。原文
赤い衣に血の涙が降りそそぐ、という嘆きである。
矢野も住谷もいよいよ西遊を決心した、貴兄もぜひ同行して「勤王之大義」を振り起こしてほしい、と高橋は結んでいる。原文原文
蘇峰は、野村からの手紙も引く。
「水戶切迫も、此間中除目等表向之處は、至極宜敷候へ共、其內實如何可有之哉」。原文
水戸の切迫は、このところ人事など表向きは至極よろしいが、内実はどうだろうか、という懸念である。
大方針が一つに定まらず、どうにもならない、と野村は嘆く。原文原文
そこで高橋らと評議した結果が、特派の議であった。原文
「外援無之候而は、必成就不致儀に付、諸藩へ人を差出し」。原文
外からの援けがなければ必ず成就しないから、諸藩へ人を差し出す、という結論である。原文
中国筋と四国辺の二手に分かれるべきだ、とも書く。原文
「戰國同樣之形勢」、戦国さながらの形勢だから、智謀雄略を振るうべき秋だ、と野村は結ぶ。原文
書中の「占魚子」は鮎沢伊太夫、高橋多一郎の弟のことだと蘇峰は注している。原文原文
二組、十月十一日
冒頭の千住大橋の舟出の前には、こんな事情があった。原文
関の日録には、長谷川の亡命によって都下の探索がいよいよ急になった事情も記されている。原文
太宰の家に留まっていた義民二人が召し捕られ、僕と下婢が縛られ、家財は押収された。原文
関が北地公役で携えていた秘筐も旅装も没収され、姓名が明るみに出た。原文
寝ても食べても安心できず、数日身を隠した、というのだ。原文原文
十月十一日、四人は二組に分かれて江戸を発った。原文
住谷と大胡は南海・西海へ、矢野と関は北陸・山陰・山陽へ。原文
いずれも変名し、身なりを改めて潜行した。原文
奇しくも同じ日、薩摩の志士(国事に奔走した武士)有馬新七が桜任蔵を伴って江戸を発ち京都へ向かっている。原文
互いに知らぬ別個の運動であった、と蘇峰は記す。原文原文
矢野と関は十一月朔日に越前福井に至り、坂部簡輔と野村淵蔵に面会したが「要領を得ずして去つた」。原文
そして鳥取で、二人は偶然にも桜任蔵と行き会う。原文原文
住谷と大胡は中山道から北陸道に入り、加賀、越前、若狭を経て京都、大坂、兵庫、明石から四国へ渡った。原文
十一月二十三日、坂本龍馬、窪為介、甲藤馬太郎ら剣客たちが来会したが、これも要領を得ずに終わった。原文
十二月八日に伊予宇和島に至り、金子孝太郎、高間権八、上田左治馬と会い、十九日には阿波で剣客佐藤兵馬、堤大介を訪ねた。原文原文
一方、矢野と関は鳥取から津山を経て備前に入り、長船から水路で馬関へ、十二月二十九日に長州萩に着いた。原文
赤川忠亮に会って大いに謀り、安政六年正月七日に帰途に就く。原文
再び鳥取に立ち寄って安達らと義盟を結んだという。原文原文
首鼠両端
彼らは果たしてどれほどのものを得たのか。
「猝かに判斷することが出來ない」、にわかには判断できない、と蘇峰は保留する。原文
だがすぐ後に、当時の諸藩はみな井伊大老の勢焰を畏れ避け、どれも「首鼠兩端」――穴から首だけ出して様子をうかがう鼠のように、どちらにも付かずにいた、と書く。原文
たまたま水戸の士と肝胆相照らす者がいても、個人の資格にすぎなかった、というのが蘇峰の見立てである。原文原文
矢野と関は、二月に海道へ出て帰藩した。原文原文
蘇峰はこの大獄について、一橋派の勢力を一時圧倒したように見えても、その力を根底から破壊する目的は貫徹できず、朝幕関係に容易ならざる破綻を生じて倒幕の気勢を助長し、井伊自身も政敵の襲撃を受けて悲惨な最後を遂げた、結果は幕府の期待を裏切るものが多かった、との評価を紹介している。原文
けれどもこの章の時点では、まだ誰もそこまで見通してはいない。原文原文
窮鼠は猫を食むどころか、四方に走って、どの穴の鼠もまた首だけ出して様子をうかがっているのを確かめて帰ってきた。原文
そう読むこともできる。原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第42 安政大獄 後篇』民友社、1940年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1228565 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻3』PID 1041909 |
| 日付・人名 | 本文の日付 15 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 10 名のうち 10 名が『維新史料綱要 巻3』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 第42 安政大獄 後篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
