鎖国に引き戻す、という空手形 ―― 安政五年十二月三十日、間部詮勝の参内と宣達書

あらまし

安政5年12月30日(1859年)、老中の間部詮勝が御所に参内し、天皇との対面を願い出ました。10月24日の最初の参内では、天皇の体調がすぐれないという理由で、杯を賜るだけで終わっていました。

この日は小御所で対面がかない、常御所で装束の下賜があり、絹5匹を賜りました。関東からの献上品については、女官の手による文書も出されています。間部は一刻も早く江戸へ帰りたがっていた、と蘇峰は記します。江戸は彼を京都に留め、天皇の周囲から各地の志ある者まで一掃させたい考え。天皇もまた、武力の圧迫の象徴である間部が早く京を去ることを望んでいた、と蘇峰は見ています。

このとき間部に授けられた宣達書は、外国との和親貿易は国の傷であり神州の汚れだ、と書き出します。そのうえで、将軍以下の幕府が一致して鎖国の古い決まりに引き戻す考えだと聞き、まことに安心した、と述べました。朝廷と幕府が手を結んで早く良い手立てを回し、やむを得ぬ事情については当面猶予する、とも続きます。この保障は全くの空手形で、間部は偽りを申し立てて目的を達したのだ、と蘇峰は断じています。

九条関白の記録には、宣達書に至るまでの案文が4通残っていました。第一案は、兵庫1港だけでも外すか、大坂での商いだけでも止められないかと求めるもの。ほかの港には3年か5年の猶予を与えてその間に必ず挽回せよとし、大老・老中の請書と将軍の添書まで求めています。幕府には明白すぎ、的確すぎた、と蘇峰は評します。案は回を重ねるごとに緩み、兵庫1港、3年か5年という数字は消えました。

裏側の事情は、井伊直弼の在京代理人である長野主膳と、公用人の宇津木六之丞との往復書簡に表れます。12月6日付の宇津木の返書は、捕らえた小林良典と鵜飼幸吉の吟味が都合よく運んでいると伝え、春以来はじめてめでたい調子が出たと喜んでいます。12月14日付の返簡は、大名に死罪を命じれば騒動の元になると述べました。大名以外にはどれほど厳しい刑罰も遠慮なく行う覚悟だったと見るほかない、と蘇峰は読みます。手紙は梅田源次郎も同じ一味だとし、小林に毒を盛ろうとする動きがあったとも伝えています。

京都の囚人は竹の輿で江戸へ送られ、膳所では足軽100人が火縄を切り、物頭と大目付が警固しました。正議派と呼べる者は民間に一人も残らず、京都は長野主膳の独り舞台だった、と蘇峰は記します。間部は年末に帰る許しを得たあとも、なお京に50日とどまりました。

鎖国に戻すという保障がどう作られたのかを、九条関白の記録に残る4通の案文、長野主膳と宇津木六之丞の往復書簡、長橋局記の記述からたどれます。

目次

十二月三十日、小御所

安政五年十二月三十日(1859年)。原文
十月二十四日の最初の参内(御所へ参上すること)では、天皇に「御小恙」があるという理由で、ただ天盃を賜っただけだった。原文
今回はちがう。原文原文

記録には「何卒御對面被爲有候樣願度旨」とある。原文
どうかお会いになっていただきたい、という願いである。原文

原文『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』第11章 NDL コマ 154

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長橋局記はその日の様子を伝える。原文
小御所(御所の中の建物)で対面、常御所で装束の下賜、殿上人が内々に剣を持参する。原文
絹五匹を賜った、ということだ。原文
関東からの献上品について女房奉書が出され、伺候の間では大御乳人が出て会った。原文原文

間部は「帰心矢の如く」であった、と蘇峰は書く。原文
江戸は彼を京都に留め、天皇の周辺から諸有志まで一掃することを期待していた。原文
一方で天皇は、武力圧迫の象徴である間部その人が、一日も早く京を去ることを望んでいた。原文
京都は泥田のようで、長く居れば足が深く沈む。原文
間部がそう考えたからこそ長居を嫌い、天皇もまた同じ理由で彼の退京を望んだ、というのが蘇峰の読みである。原文原文

鎖国之良法に引戻す

このとき間部に授けられた宣達書がある。原文
蛮夷との和親貿易は「皇國之瑕瑾、神州之汚穢」であり、先帝の代から叡慮を悩ませてきた、と書き出す。原文
国の傷であり、神州の汚れだ、という意味である。原文原文

そのうえで、間部と酒井が上京して言上したところによれば、将軍以下、大老(幕府の最高職)老中(幕府の重臣)も「鎖國之良法に、可被引戾段、一致之儀被聞食、誠以御安心之御事に候」とある。原文
幕府は一致して鎖国の旧法に引き戻すつもりだと聞き、まことに安心した、というのだ。原文
その上は公武合体で早く良策を回し、やむを得ぬ事情については「審御氷解被爲在、方今之處、御猶豫之御事に候」。原文
よくわかったので、いまのところは猶予する、と続く。原文
神宮と京師近海については、先日伝えたとおり伝国の神器を重んじ、よく勘考するように、と結ぶ。原文原文

つまり間部は、やがて鎖国の旧法に戻すと保障してみせた。原文
この保障が「全くの空手形」であることは言うまでもない、と蘇峰は断じる。原文
正しく言えば間部は虚偽の申し立てをして、目的の全部または若干を達したのだ、と。原文原文

原文『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』第11章 NDL コマ 155

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間部は年末に暇を賜ったあとも、なお京に五十日とどまった。原文
蘇峰は「誠以御安心之御事に候」の一句についても、果たしてそうか、と疑問を置く。原文原文

兵庫一港、三か年か五か年か

九条関白(天皇を補佐する最高の官職)の記録には、宣達書に至るまでの文案が四通ある。原文
いずれも九条と間部との間で折衝された案文であり、宣達書が幾度もの談判と協議の末に決まったことがわかる。原文原文

原文『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』第11章 NDL コマ 156

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第一案は具体的だった。原文
せめて兵庫一港だけでも除けないか、あるいは大坂での商いだけでも止められないか、というのだ。原文
そのほかの港は「三个年或は五个年御猶豫」、三年か五年の猶予を与えるから、その年限内に必ず挽回せよという。原文
しかも大老老中の請書と将軍の添書を出せ、と求めた。原文原文

蘇峰はこの案を、幕府にとって「餘りに明白であり、餘りに的確である」と評する。原文
守るには明白すぎ、的確すぎた。原文
間部がこれを承引するのをためらったのも不思議ではあるまい、と。原文原文

第二案は大同小異だが少し緩和され、年限中でも大坂での夷人雑居は固く停止、という条件が残る。原文
第三案はさらに緩む。原文
第四案は、三月二十日の勅答のほかに他念はない、精々武備を整えて速やかに興復せよ、大坂の通商雑居は皇都に近いから幾重にも差し止めるよう勘考せよ、という内容で、ほぼ最終の宣達書と同じ意味、同じ緩急である。原文
回を重ねるごとに緩和され、ついにあの宣達書になったのであろう、と蘇峰は推す。原文
兵庫一港、三か年か五か年という具体的な数字は、こうして姿を消した。原文原文

水戸はよほどの事を

この一段落に至る裏面の消息を最もよく語るのは、井伊直弼いいなおすけの在京代理人である長野主膳(義言)と、井伊の公用人(主君の対外の用向きを担う役)宇津木六之丞との往復書簡(手紙)だ、と蘇峰は言う。原文原文

十二月六日付、宇津木から長野への返書。原文
小林良典と鵜飼幸吉の一条は都合よく運び、京都町奉行(町の行政と裁判を担う役人)付の与力(奉行の下で働く役人)である加納繁三郎と渡辺金三郎が掛かりとなって厳しく吟味している、とある。原文
押収した水戸屋敷からの来状には「祕物破烈」という語があり、これは必死に切り込むという隠語だという。原文
なんとも悪い企みだ、と宇津木は書く。原文原文

「水戶はよほどの事をいたし候と見へ候」。原文
水戸はよほどのことをしたと見える、というのだ。原文
「春來始てケ樣成目出度御調も出候よし」。原文
春以来はじめてこのようなめでたい調子が出た、と宇津木は喜ぶ。原文原文

手紙が伝える天皇の言葉は本当にそうだったのか、仮にそうだとしても真実の思召だったか。原文
相手は反対党の首領とも言うべき九条関白であり、応接に多少の駆け引きがあったと察するのは難しくない、と蘇峰は留保する。原文
ただ、間部が水戸をはじめ正議派を誣告した効果が皆無でなかったことは認める。原文原文

原文『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』第11章 NDL コマ 159

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寛猛之御所置

十二月十四日付の返簡は、内輪の事情をさらに漏らす。原文
吟味は正路に行き届いている、しかし大名のうちに死罪を命じるようなことになれば騒動の基だ、「寛猛之御所置、一大事之御場合」と。原文
寛と猛の処置の使い分けが一大事の局面だ、という意味である。原文
蘇峰はここを見逃さない。原文
彼らが回避しようとしたのは大名の死罪だけであり、大名以外の者には如何なる厳刑酷罰も遠慮なく決行する覚悟だったと見ねばなるまい、と。原文原文

原文『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』第11章 NDL コマ 160

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小林から取り上げた書付(文書)の写しは、井伊直弼の目に供された。原文
長野らは小林らの口供を天皇にも供し、井伊側への疑念を晴らすというより、水戸その他正議派への信念を破壊しようとした、と蘇峰は読む。原文
その口供が正直な告白だったか、審問者によって製造された告白だったか、保証の限りではない、とも付け加える。原文原文

これらの書類を酒井が隠していたのは、長野らが「手荒な治療」を施して大事を惹き起こすことを恐れたためであろう、と蘇峰は見る。原文
しかし周囲の圧迫は、ついに酒井に秘密を暴露させた。原文原文

企画の順序も書かれている。原文
京都では小林、鵜飼の申し口から近衛、鷹司父子、二条、万里小路、大原三位まで白状させる。原文
関東からは書類が着き次第、公家が反逆に荷担しているから「何時國亂を生じ可申も、難計」と京都へ相談する。原文
いつ国乱が起きるかわからない、というのだ。原文
まず罪状は定めず慎ませておき、条約の一件が済んでから咎めを申し渡し、引き続き合体の仕方に懸かる。原文
これが彼らの筋書きだ、と蘇峰は示す。原文原文

同じ手紙は、ある方面から小林に一服盛ろうとした手段があった、とも伝える。原文
毒殺による証拠湮滅の企てだという。原文
事実かどうかはともかく、当時の京都の空気が如何に険悪であったかは知るべきだ、と蘇峰は書く。原文原文

長野義言の一人舞台

吟味は広がる。原文
梅田源次郎も小林らの連中だ、と手紙は書く。原文
伏見奉行(伏見を治める幕府の役人)で禁裡取締の内藤正縄については、何を吟味しているのかわからない、と手ぬるさを攻撃する文句がある。原文原文

七日にはまた勅書で、酒井が近衛に対し、関白が九条に戻れば水戸の一条で京都では吟味しないと請け合ったことが持ち出された。原文
九条関白は「殆御困り」、ほとほと困った、という。原文
酒井の甘言が面倒を生んだのだ、と蘇峰は言う。原文原文

そこで出てくるのが「內間之姦惡不殘斷絕」の一句である。原文
内部の奸悪を残らず断絶する、という意味だ。原文
これこそ長野と宇津木が東西で呼応して井伊に吹き込み、井伊が間部を刺激し、間部が酒井と内藤を刺激したものであろう、と蘇峰は見る。原文
間部の運動の大部分は、長野・宇津木が井伊を通して描いた筋書きの実行だった、と言っても過言ではあるまい、と。原文原文

堂上(朝廷の上級の貴族)も二派に分かれたという。原文
手紙のこうした話はいずれも水戸を標的としたものだが、果たして事実かどうか頗る疑わしい、と蘇峰は言う。原文
京都の囚人は竹輿で江戸へ送られた。原文
その道中は厳重で、膳所では足軽百人、鉄砲は切火縄、物頭と大目付(上級監察役)が警固した。原文
江戸では日下部伊三治と鵜飼幸吉うかいこうきちが互いに罪をなすり合うため、幸吉を江戸へ呼び下す必要が生じた。原文
井伊は政商鈴木藤吉郎の一件もあり毎夜白洲で、宇津木が訪ねても容易に会えないほどだった。原文原文

正議派と言うべき者は民間に一人もなく、ことごとく捕縛され、捕らわれぬ者は潜伏し、公家の参謀となるべき家臣もまた幕吏に押さえられ、残るは青蓮院宮と近衛、鷹司、三条以下若干の公家に過ぎない、と。原文
長野義言と対立して譲らぬ者を強いて求めれば、江戸から橋本左内はしもとさないを招き上すほかなかったが、その左内もいまや小林、鵜飼と運命を同じくする身となった。原文
乃ち京都は当時「長野義言の一人舞臺」であった、と。原文原文

原文『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』第11章 NDL コマ 165

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天皇の前で絹五匹を賜った老中と所司代(京都に置かれた幕府の代表)。原文
その手には、鎖国に引き戻すと記した一通の宣達書。原文
同じ冬、竹輿は東海道を江戸へ下り、膳所には足軽百人が火縄を切っていた。原文
安心、と書かれた紙と、火縄の匂いと。原文
どちらがこの冬の京都の本当の顔だったのか。原文

この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』民友社、1940年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1228553
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻3』PID 1041909
日付・人名本文の日付 4 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 7 名のうち 7 名が『維新史料綱要 巻3』にも現れます。

本記事は『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物井伊直弼橋本左内間部詮勝鵜飼幸吉年1858安政