あらまし
水戸の使者が、松平慶永の家臣・中根雪江のもとを訪ねました。安政5年(1858年)6月24日の朝、大老の井伊直弼を訪ねる支度の最中だった慶永は、その誘いに応じます。国のために皆が城へ上がるのに声をかけてもらえたのはありがたい、と答えました。
井伊のもとで慶永は、大名に意見も聞かずに条約に調印したのは天皇の命令にそむく、と責めました。井伊はただ許しを乞い、自分が京都へ上って弁明すると答えます。井伊は本気で上京する気だったと蘇峰は見ています。将軍の跡継ぎは明日にも発表されると井伊が言うと、慶永は延期を求めました。井伊は不服のまま、刻限を告げられて席を立とうとします。
慶永は井伊のはかまのすそをつかんで押しとどめ、聞き入れないなら自分も城で議論すると迫りました。井伊側の『公用方秘録』には条約の話だけが記され、同行は断ったとあります。帰る慶永がひどく腹を立て、手紙らしきものを早馬で水戸へ送らせたとも同書は伝えます。慶永が城に着いたとき、斉昭父子と慶恕はすでに城内。段取りは、調印の責任追及、慶永を政治の補佐に推すこと、跡継ぎの件でした。
ところが将軍の用があるとされ、長く待たされます。井伊たちは屏風の内にこもって相談し、酒井忠義が折々出入りしていました。会見が始まったのは午後3時ごろ。昼食も出されず、井伊は弁当があるはずだと言ったと『幕末政治家』は記します。井伊は策を好む人だった、と蘇峰は見ています。
会見が開かれると、斉昭は慶永も呼べと求めましたが、老中の脇坂安宅が入口で止めました。弁護する者を取り上げられたようなものだ、と蘇峰は書いています。条約の件は受け入れられ、跡継ぎは決定済みとして退けられ、慶永の推挙に井伊は黙ったまま。退出は午後4時ごろで、何も得られませんでした。
その日、慶永は橋本左内を岩瀬忠震のもとへ行かせます。大老たちは笑い合い、恐れられた老公も思ったほどではなかったと井伊は笑ったといいます。岩瀬はその夜、慶喜を西の丸に移して補佐させてはどうかと書き送りました。準備も覚悟もなく飛び出した結果だと蘇峰は断じています。左内は、長年の名声がこの日に消えたという落胆の声を伝えました。
朝から夕方までの一日に何が起き、何が起きなかったのかを、『公用方秘録』と『幕末政治家』、そして橋本左内の報告と岩瀬忠震の書状からたどれます。
安政五年(1858年)六月二十四日、卯の刻(午前六時)を少し過ぎたころ。原文
松平慶永の家臣中根雪江のもとへ、水戸の使者が来た。原文
今日、徳川斉昭とその子で水戸藩主の徳川慶篤、尾張の徳川慶恕が申し合わせて登城するので、慶永も登城して相談に加わってほしい、という口上である。原文原文
中根が急いで取り次ぐと、慶永はちょうど大老井伊直弼を訪ねる支度の最中だった。原文
側の者を遠ざけ、しばらく考えたうえで、三家の人々が国家のために登城するのに自分を誘ってくれたのは「家に取り身にとり本意ある事」だと答えた。原文
ただし大老を訪ねた後になるので少し遅れるかもしれない、とも。
使者は「嘸々満足可被存」と喜び勇んで帰った。原文
さぞご満足だろう、という意味である。原文原文
慶永が誘われたのは登城の当朝であったと蘇峰は記す。原文
準備の時間は、ほとんどなかったことになる。原文原文
袴の裾
卯半刻(午前七時)、慶永は井伊直弼の屋敷に着いた。原文
まず条約の話。原文
諸侯への詮議もなく調印を済ませ、奉書で奏上するのは「正敷御違勅」、まさしく勅命違反になる、将軍が勅命に背けば諸侯もまた幕命を守るまい、と論じた。原文
井伊は「此事は真平御免候へ」と繰り返すばかり。原文
この件だけは平にご容赦を、と言うのである。原文
ではどうやってこの罪を申し宥めるのかと問えば、老中では行き届くまいから自分が上京して申し訳をする、と答えた。原文
いつ発つのか。
軽い身分の者と違って支度もあるから、登城のうえ老中と相談して決める、と。原文原文
井伊は本気で自分の上京を考えていたらしい、と蘇峰は見る。原文
九条家との手づるもあり、京都の事情に通じているとの自信もあって、自分が一度腰を上げれば公家の空論などたちまち鎮まると己惚れていたのだろう、と。原文
しかし京都の大勢がどれほど激変しつつあったかは、まだ十分につかんでいなかっただろう、とも書く。原文原文
慶永訪問の表向きの目的は仮条約調印の件だったが、真意はむしろ養君問題にあっただろう、と蘇峰は記す。原文
慶永は堀田正睦から聞いたと言って、京都への伺いは済んだのかと尋ねた。原文
井伊は、伺いは済んでいるので明日にも仰せ出されるはずだ、と答える。原文
名指しの伺いか。原文
いや「唯御養君とのみ」、ただ養君を立てるとだけ伺うのが先例だ。原文
京都の思召は。原文
「目出度思召」、めでたいとの仰せだ、と。原文原文
松平慶水の井伊直弼を訪問したる表向きの目的は、其の眞意は却て以下記する所の養君問題であつたらう
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開くここで慶永は延期を説く。原文
京都では専ら一橋家の徳川慶喜を推していると聞く。原文
名指しの伺いもなく徳川慶福を立てれば、京都は案外に思われまいか。原文
そのうえ養君は家の祝事である。原文
条約調印で逆鱗も測りがたい時節に祝事を一緒に発表すれば、いよいよ天意に逆らい、済むべきことも済まなくなる。原文
だから条約の一件が聞き済みになってから祝事を執り行うのが「事理共に然るべく」、道理にも事情にもかなうのではないか、と。原文
発表だけでも延ばし、その間に何か方便を廻らそうというのが一橋派最後の頼みだったのだろう、と蘇峰は見る。原文原文
井伊ははなはだ不服だった。原文
もう明日と決まったことをどうにもできない、紀州殿を立てて京都に何の障りがあるか、と強弁した。原文
そこへ近習が登城の刻限を告げる。原文
井伊が「今日は是切」、今日はこれまでと座を立とうとした。原文
慶永は井伊の袴の裾を「無手と握んで」押し据えた。原文
今日を過ごしては何の甲斐もない、ここで聞き届けぬなら自分も登城して御前で議論に及ぶ、と迫る。原文
以上は慶永側の記録で、「如何にも殺風景の体たらく」だと蘇峰は書く。原文原文
井伊側の『公用方秘録』には、条約問題だけが記され、養君問題は出てこない。原文
登城についても「決て難相成義」、決してできぬこと、と断ったとある。原文
帰る慶永は「殊之外御立腹之体」、ことのほか腹を立てた様子で、御中門で供頭に手紙のようなものを渡し、それが早馬で水戸へ届いたのを見た者がいた、とも。原文
両者を照らせば、これが通常の会見でなく不穏な気分が漲っていたことが想いやられる、と蘇峰は記す。原文原文
屏風の内
慶永が大老に続いて登城すると、すでに斉昭父子と慶恕は城内にいた。原文原文
慶永は上の御部屋で斉昭に会い、今日の計画を聞いた。原文
第一に違勅調印の罪を責める。原文
次に「薦賢」、すなわち慶永を薦めて大政を輔佐させる議を建てる。原文
それから世継ぎの件に及び、時宜によっては大老の排斥も、その席で決しなければ将軍の御前で決議を願う、という段取りだった。原文原文
夫より建儲の事にも及ばるべく、老をも御擯斥あるべく、若し其御席にて、御論議決し兼なば、御前御願にて、於台前可被及御決議との御示談なる由
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く「御前の御用有り」という。原文
将軍の用と言われれば、三家といえどもどうにもできなかった、と蘇峰は書く。原文
後で聞けば、人の知らぬ奥まった所に屏風を引き廻し、その中に籠もって「兎せん角せん」、ああしようこうしようと相談していた。原文
屏風の内へは所司代内命の酒井忠義が折々出入りしていた。原文
忠義は京都で大老の代表として働くことが確定しており、このとき偵察の役を勤めたのだろう、と蘇峰は見る。原文原文
水戸側から度々催促しても、午を過ぎて音沙汰なし。原文
忠義が出て来て何ということもない話をした。原文
慶永のところへも同じ。原文
辰半刻ごろに登城して、未の半近く(午後三時ごろ)にようやく会見。原文
この一事だけでも、朝の気を外らして暮れの気を迎え、鋭気を避けて惰気に当てたものだ、と蘇峰は記す。原文原文
昼飯の話がある。原文
福地源一郎の『幕末政治家』によれば、目付の駒井左京が、午を過ぎても三卿が食事をしていないのを見て台所から午飯を出そうかと伺ったところ、井伊は声を励まして、召しもなく登城したのだから弁当の支度があるはずだ、午飯など差し出すに及ばぬ、と答えたという。原文
きっと弁当を持参しているだろう、湯漬は要らぬ、というのである。原文
内藤は井伊の意を聞かなければ返事もできぬ有様だった、と同手記は付け加える。原文原文
『幕末政治家』はさらに、旧幕の故老から聞いたという説を載せる。原文
諸老は将軍不例と称して遮ろうと言ったが、井伊は、自分は執奏して引見を取り行い、席を避けて思う所を十分に直奏させる、それで譴責を蒙るなら甘んじて職を罷める、と譲らず、議論紛々として午後三時まで時刻を費やした、というのである。原文原文
これは「如何にも井伊に花を持たせたる観察」だと蘇峰は退ける。原文
井伊は前日に慶喜、当朝に慶永と会っており、斉昭らが藪から棒に直訴するはずでないことは推察していた。原文
一方で種々の評定もしたであろうが、他方では故意に悠々と時間を経過させたのではないか。
井伊の家臣長野主膳や側近の宇津木六之丞を寵用したことからも分かるように、井伊は術策を用い、用いることを好んだ人であった、と蘇峰は見る。原文原文
慶永の同席拒否と議論の膠着
会見が始まると、思いがけない狂いが生じた。原文
斉昭が、越前も誘い合わせて出ているから一緒に申したい、呼べ、と言った。原文
井伊と太田は「然るべく候半」、それがよろしかろうと応じ、内藤が慶永を呼びに立った。原文
まず三家の御意を伺ってから別に慶永に会う、と。原文
老中の脇坂安宅が立って、出て来ようとしていた慶永を指し留めた。原文原文
これは斉昭らにとって意外千万な打撃であった、と蘇峰は書く。原文
斉昭は五十九歳、耳が遠く、論議は難しい。原文
慶永は三十一歳、血気盛りで、この仲間の急先鋒であり実務の代表とみなされていた。原文
彼を同席させられないのは「法廷に於て弁護士を取り上げられたると一般」だった、と。原文原文
議論は三つ進んだ。原文
違勅の件では、大老か閣老が早速上京せよと猛々しく責めた。原文
井伊らは承ったうえで「御尤の御事」、ごもっともです、私共もそう考えており相談のうえ上京のつもりだ、と答える。原文
これ以上責めようがない。原文
養君発表は時節柄不都合だ、紀州殿は幼年では不可と言うなら刑部卿を立てるべきだ、と言った。原文
井伊は、これはすでに伺いも済み、先刻表方へ仰せ出しの手配も命じたので、今更延引は取り扱いかねる、と答える。原文
最後に「薦賢」。原文
慶永は才徳人望ともに当時の選であるから大老の上に置き、将軍とも相談させれば天下のためだ、と斉昭が言うと、井伊は「黙然」。原文原文
一同が御前を退いたのは申刻(午後四時)ごろ。原文
五、六時間待たされて、対談は一時間内外。原文
違勅は承服され、養君は既に結了したと遮られ、薦賢は追っての相談。原文
何ら要領を得なかった、と蘇峰は記す。原文原文
呵々大笑
その日、慶永は城中の風説を聞くため、家臣の橋本左内を岩瀬忠震のもとへ遣わした。原文
左内の復命はこうだ。原文
談判が済んだ後、閣中は粛然としているだろうと思ったら案に相違して、大老閣老が「呵々大笑」している。原文
後に一翁と称する大久保忠寛が堪えかね、京都の件を伺うにかこつけて大老に会い、今日は珍しく御三家の不時登城でしたが何の御用でしたかと問うと、大老は、色々申し立てられたがさしたることもない、鬼神のように言われた老公も思いのほか何ほどのこともない、と打ち笑ったという。原文原文
岩瀬が慶永に花を持たせるため多少誇張して語ったかもしれないが、実際おそらくこの通りだったろう、と蘇峰は書く。原文
酒井忠義が三家に謁したのは「閣老の間者」、閣老の放った探りで、それほどでもないことをよく聞き糺したのだ、とも左内は伝えた。原文原文
駒井山城守の伝聞では、条約調印は大老の職権をもって抗弁し、養君は京都へ伺い済みの書面を斉昭に見せて事済みになった、という。原文原文
同じ頃御目付駒井山城守の傳聞には(岩瀨肥後守よ米國假條約調印の一事は、元老職權を以抗辯し、儲君の事は、已に京都え御伺濟の書面を事濟となりたりと
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開くその夜、岩瀬は慶永へ書を送っている。原文
再挙を熟考したが明朝になれば「迚も不可挽回の勢」、とても挽回できない勢いだ。原文
ならば養君は天下に任せ、賢者を挙げることを主に議論してはどうか。原文
慶喜を西の丸に移して補佐の任に就ければ、「天下英雄の心を攬する」、天下の英雄の心をつかめるのではないか、と。原文
思い切りのよい江戸っ子の岩瀬も、一橋問題には余程の執着があった、と蘇峰は見る。原文原文
烏有
蘇峰は斉昭らの失策を四つ数える。原文
十分の準備なく論点を講究しなかったこと。原文
怒気と憤気で反対者に虚を突かせたこと。原文
井伊も間部も一筋縄ではいかない、腹も駆け引きもある曲者だと予知しなかったこと。原文
急先鋒に慶永を差し向けるつもりでいながら、家門と三家では城中の格式が違い同席できないことに気付かなかったこと。原文原文
不時登城そのものが不可だとは言わない。原文
だが乾坤一擲の大事であるからには、決心覚悟と準備予算があって後に行うべきで、一旦の憤激に任せて飛び出したのだから惨めな始末になるのもやむを得ない、「自業自得」だ、と蘇峰は言い切る。原文原文
そして左内は最後にこう伝えた。原文
今日事が成らなかったのみならず、「老公多年の威名、今日に至つて、烏有となれり」、長年の威名がこの日無に帰した、と諸有志の失望は限りない、と。原文原文
屏風の内で五時間、外で五時間。原文
片方は弁当の有無を問い、片方は湯漬も出されずに待った。原文
そのあとに残ったのは、笑い声だけだったのだろうか。原文
晝餐を供せず御表にては當番御目付駒井山城守御勘定奉行御勝手掛土岐豐前守兩人にて、時刻にもなりたれば、水戶殿え御湯漬の進ぜられを申立てしを、なれば必御丸辨當の御用意あるべし、其儀に及ばずとの答なり
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』民友社、1935年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1223976 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻2』PID 1046669 |
| 日付・人名 | 本文に日付はありません。本文に出る人物 8 名のうち 6 名が『維新史料綱要 巻2』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
