あらまし
弘化2年(1845年)、隠居を命じられていた水戸の徳川斉昭が、自分で写させた一冊の本を老中の阿部正弘に届けました。表題は『明君一斑抄』。前の年の5月におごりを理由に藩の政治から離された人が、暇にまかせて抜き書きしたものです。海防掛の役人に見せてもよい、ただ天下のために広く意見を聞きたい、と添え状にありました。
阿部は、熟読して誠実さに感服したと返し、自分たちの手元でしかるべき方の目に入れておいたと伝えます。その相手は将軍。蘇峰は、この本が初めから将軍に見せるために書かれたものと見ています。目次は7項で、巻末の外国人を近づけるなという章がもっとも時勢に切実だと蘇峰は記しています。
本が届いた江戸はどんな町だったか。老中の水野忠邦の改革は天保12年5月から14年9月までの2年半で終わりました。それが崩れると人々は前よりも速く遊びに走ったと蘇峰は書きます。女芸者は1軒に1人までという制限にとどまり、幕府がもめ事を避ける方針を取った証拠だと蘇峰は見ます。値上がりを並べた連歌も引かれ、急な改革の逆戻りほど世を毒するものはないとも述べています。
読み手は12代将軍の徳川家慶でした。寛政5年5月14日生まれ、天保8年4月2日に父家斉から職を譲られ、同年9月2日に征夷大将軍。意志が固いとは言えないが暗愚でもなく、人を見る目が少しはあったと蘇峰は認めます。『遠近稿』は、疑り深い性質で機嫌を損ねると何も通らないと評しています。蘇峰はこの将軍を扱った阿部の手腕が並でないと書いています。
斉昭はもともと、水戸の正義党の人々が命も受けずに江戸へ出て、先代藩主の弟から藩主に押し立てた人物です。時に30歳。継いだ後は兵を訓練し、学校を興し、寺を壊して鐘や仏像を鋳つぶして銃や大砲を作りました。蝦夷地の経営について意見書を出し、その土地を一手に引き受けたいとまで願い出ています。天保14年5月には幕府から刀や黄金を賜りながら、翌年5月には隠居を命じられ、謹慎が解かれたあとも藩の政治には触れさせてもらえませんでした。
末章で斉昭は、長崎は表門、蝦夷は裏門だと呼び、裏門の守りの薄さを説きます。薄い船では海防に役立たないから、丈夫な中小の船を多数そろえて敵の大船を囲めという案です。大名に船がないのは幕府も同じだという説を、蘇峰はもっとも要領を得ていると評します。一方で同じ筆は、オランダ国王の忠告をいっさい受け入れるなと求めました。蘇峰は、この外国を追い払う一点張りが後に徳川の本家を悩ませる元になったと記しています。
『明君一斑抄』の末章と阿部正弘への書状、蘇峰の評から、斉昭が将軍に何を吹き込もうとしたのかがたどれます。
弘化二年(1845年)、蟄居(家にこもる罰)中の徳川斉昭が、一冊の写本を包ませた。原文
表題は『明君一斑抄』。原文
届け先は老中(幕府の重臣)の阿部正弘である。原文
「閑暇中致抄録候」と添え状にある。原文
暇にまかせて抜き書きした、という意味だ。原文
前の年の五月に「驕満」を理由に隠居(家督を譲って退くこと)を命じられ、藩政から遠ざけられていた人の、暇である。原文原文
斉昭は蟄居中といえども「固より無為なる能はなかつた」と蘇峰は書く。原文
何もせずにいることが、できない人だった。
添え状はこう続く。
「海防懸り之官吏迄、御示に而も宜敷」「只々天下之御為、衆評公論所冀候」。原文
海防掛(海防担当役)の役人に見せてもらってもかまわない、ただ天下のため、公論を望むのみだ、というのである。原文原文
阿部の返書も蘇峰は引いている。原文
「拝見被仰付、熟読仕、御誠忠之程奉感伏候」。原文
拝見し、熟読し、ご誠忠に感服いたしました、という挨拶だ。原文
そして「私共場合に而奉入御覧置申候」。原文
自分たちの手元で、しかるべき方の目に入れておきました、と。原文
しかるべき方とは将軍である。原文
この本は最初から将軍に見せるために書かれたものだろう、と蘇峰は見る。原文原文
本の目次は七項。原文
仁心を本とすべきこと、奢侈を禁ずべきこと、諫言を用うべきこと、刑は刑なきを期すべきこと、治に乱を忘るべからざること、仏法を信ずべからざること、夷狄を近づくべからざること。原文
そのうち巻末の「夷狄を近付くべからざる事」が最も時勢に切実だ、と蘇峰は記す。原文原文
五割増しの辻君
この一冊が届いた江戸の空気を、蘇峰は先に描いている。原文
老中の水野忠邦の改革は、天保十二年五月から十四年九月まで、二年半しか続かなかった。原文
それが崩れたとき、人心は「従前に倍するの速度と、熱度とを以て」享楽に走ったという。原文原文
記録者の月岑は、江戸のにぎわいを「実にこれ昇平の御恩沢にして」と書く。原文
太平の恵みである、と結んでいるのだ。原文原文
幕府の触れは、女芸者について「其家にて一人を限可申」とした。原文
一軒につき一人までとせよ、というのだ。原文
禁止ではなく、数の制限にとどまっている。原文
水野の失敗に懲りた幕府が「成る可く事勿れ主義」を取った証拠だと蘇峰は見る。原文原文
同じ年の時世連歌十二句も引かれる。原文
街娼の値が五割上がり、女師匠の弟子が増え、湯銭も髪結も値を上げる。原文
「急激なる改革の逆戻り程、世を毒するものはない」と蘇峰は書く。原文
斉昭の一冊は、こういう町へ投げ込まれたことになる。原文原文
疑察の深い上様
読み手である十二代将軍の徳川家慶は、どういう人だったか。原文
寛政五年五月十四日に生まれ、天保八年四月二日に父家斉から職を譲られ、九月二日に征夷大将軍となった。原文原文
家慶は必らずしも意志鞏固の性格者ではなかつた。されど彼は亦た決して暗愚ではなかつた。彼に人を知るの明ありたる乎、否乎は、詳かならざるも。其の當初水野に任じ、後に阿部に任じたるを見れば、若干是れありたるものと認めねばなるまい。但だ彼は父家齊の如く、放縱、豪侈ならざりしも、亦た家齊程の豪傑型ではなかつた。家齊は決して豪傑ではなかつたが、少くとも其型はあつた
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く蘇峰の評は慎重だ。原文
「必らずしも意志鞏固の性格者ではなかつた」が「決して暗愚ではなかつた」。原文
水野を用い、のちに阿部正弘を用いたところを見れば、人を知る明が「若干是れありたる」と認めねばなるまい、と。原文原文
一方で『遠近稿』の評も引かれる。原文
「御疑察の深き御生質にて、御機嫌をとりはづし候ては参り不申」。原文
疑り深いご性質で、ご機嫌を損ねては何事も通らない、というのである。原文
水戸家に関する一件も「塩梅能不申上候ては」、つまり上手に申し上げないと胸に障る、と。原文
大奥の老女(大奥の上級の女中)姉小路との間も「殊の外、困り入り候釣合」だという。原文原文
蘇峰は「穿ちたる評だ」と言いつつ、立場が立場なのだから疑り深いのも無理はない、と付け足す。原文
そして、この将軍をよく操縦した阿部の手腕が「尋常でなかつた」と。原文
斉昭が阿部を通し、姉小路を通し、「表向からも裏向からも」将軍に対外観念を吹き込もうとした、というのも同じ文脈にある。原文原文
擁立から蟄居まで
斉昭はもともと「問題の中から湧き出で来つた」人だと蘇峰は書く。原文
水戸の正義党の士が、命も受けずに江戸へ出て、強行運動で先代藩主の弟、敬三郎を立てた。原文
敬三郎が斉昭である。原文
時に三十歳。原文原文
継いだ後の動きは忙しい。
兵を練り、学校を興し、土地の経界を正し、仏寺を壊し、僧侶を淘汰し、梵鐘や仏像を鋳つぶして銃砲を作った。原文
大艦製造を献白し、蝦夷地経営の意見書を上げ、蝦夷地一手引受まで願い出た。原文
「一種の献白狂とも云ふ可き者であつた」と蘇峰は記す。原文原文
天保十四年五月には政事励精を賞され、宝刀、鞍鐙、黄金を賜った。原文
ところが幕府の扱いは一転する。原文
翌年五月、「驕満」を理由に隠居を命じられたのである。原文
その年の十一月に謹慎(外出や交際を禁じる罰)は解かれたが、藩政には触れさせなかった。原文原文
『水戸史談』の一話も添えられる。原文
土地改正の評議で三度諫めた小宮山二郎左衛門に対し、斉昭は孟子を引いて大声で反駁した。原文
小宮山は「思召通りに遊ばす様に」と引き下がったという。原文
急ぐ気性が「明君には似合なかつた」というのが、この話の評だ。原文原文
表門と裏門
『明君一斑抄』の末章に戻る。原文
斉昭はまず、三代将軍家光が黒田、鍋島に長崎の防御を命じたことを「深遠の御仕置」と称える。原文
家光は、黒船よりも近い明のほうが心許ないと言った。原文
だが今は違う、と斉昭は続ける。原文
長崎は表門、蝦夷は裏門だというのである。原文原文
裏門の守りは薄い。原文
蝦夷の地は厳寒の大地で、南端に「町人風の一小家」が城を構えているだけだと書く。原文
松前の蠣崎氏のことだ。原文原文
この論は思いつきではない、と蘇峰は言う。
斉昭が阿部に宛てた別の書状には、日本が乱れるとすれば必ず外患から始まると部屋住みの頃から懸念していた、とある。原文
家督(家の跡目)後に加賀守の大久保忠真と話したところ、蝦夷地は一日も油断できないという点で「拙老と同意」だったという。原文原文
斉昭が蝦夷地を幕府から請い受け、それで水戸藩の財政不足を補おうとした底意は、建白(意見書の提出)や文書から明らかだ、と蘇峰は書く。原文
それが主目的だったかどうかは「姑らく別問題として」、と留保しつつ。原文原文
障子を砕いた一貫目の筒
次に斉昭は江戸近海の備えを論じる。原文
浦賀の備えが「二タ年も不立内に」止められたのを「残念至極」と書く。原文
出火と兵乱はいつ起こるか前もって分からない。原文
火事の掟を帳面に定めておいても、いざとなれば届かず「大城御火災にても、一夜に数百人死亡せし」と。原文
平時に備えてこそ用心なのだ、という理屈である。原文原文
船の話になると筆が具体的になる。原文
幕府第一の大船という天地丸は、寛政年間に老中松平定信が伊豆まで試しに出したところ、引船三十艘ほどに引かせ、櫓を三十挺ほど打ち損じて、やっと往来したという。原文
それでは用に立たない。
大筒を撃っても沈まず、帆で自在に回せる船を造れ、と。原文
浦賀から品川の内で乗り馴らし、海岸の大名は漁猟にことよせて領分の海で慣らせばよい、とも。原文原文
大筒の威力については、自分で試した話を書き込んでいる。原文
天保十一年に帰国して以来、貫目以上の筒を自ら町打ちした。原文
あるとき湊で、座敷から四五十間先で一貫目の筒を撃った。原文
戻って座敷を見ると、障子は二三寸ほどに砕けて五間ほど後ろへ飛び散り、陶物商の棚の品は落ちて砕けていた。原文
だから「手薄の船にては、迚も海防の用を為し難し」。原文
大船は多くなくてよい、丈夫な中小船を多数出して敵の大船を取り巻け、という。原文原文
一つ穴の狐
斉昭は旧法に拘泥するなとも言う。原文
荷船以外の大船禁止は時によって定めた法で、後世の変通を待つものだ。原文
佐渡、隠岐、壱岐、対馬、大島、八丈、松前、蝦夷、琉球。原文
これらが敵の手に落ちたとき、船なしでどうやって取り返すのか。
幕府にも大名にも船がないのは「双方有之も同様」であり、大名を気遣って海防まで粗略にするのは遺憾だ、と。原文
三家は本船三十艘ほど、小船は数を定めず、という案も添えてある。原文
この双方なしも双方ありも同じという説を、蘇峰は「最も要領を得てゐる」と評する。原文原文
其上公邊にも、大名にも、船艦なきは、双方有之も同樣にて、萬々一只今にも心得違の人有之、浦賀より乘込むとする日に至りては、矢張是迄の船にても乘入べし。大名等を御氣遣ひの爲、海防迄麁にし、船の製造御免無之は、遺憾といふべし
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開くだが同じ筆は、別の方向にも伸びる。原文
オランダ国王の忠告書については「一切許容し給ざるにしかざるべし」。原文
一つでも許せば「其尾に取つき、年々歳々難題を申上」げる、と。原文
天保十三年に打払いを止めたことも、日本の武勇が衰えたと見抜かれた証拠だという。原文
「イギリスにても、紅毛にても、横文字通用の国々は、皆一つ穴の狐」。原文原文
蘇峰はここで一行を置く。原文
「此の攘夷(外国を追い払うこと)一点張りの議論が、如何に徳川宗家を悩ます病原となつたかは、後の事実が、逐一之を証明してゐる」。原文
蝦夷を裏門と呼び、障子の砕けかたから船の厚みを論じ、大名にも船を持たせよと言った同じ本が、同時に打払いの号令を求めている。原文原文
蘇峰はまた、どんな凡庸な将軍でもこれを読めば「禍機の身辺に近くを思ひ」防御に気づかずにいられなかっただろう、とも書く。原文原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』民友社、1929年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 3431221 |
| 日付・人名 | 本文の日付 6 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 4 名は、元本との逐語一致で確かめています。この記事の年代は『維新史料綱要』の巻の範囲外です。 |
本記事は『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』の記述に基づく読み物です。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
