墓の木は長じて ―― 昭和三年十二月、小栗上野介をめぐる六篇の反響

あらまし

幕府の財政をあずかる勘定奉行だった小栗忠順を扱う本が、1年前に世へ出ていました。昭和3年(1928年)12月12日、史家の花見が大阪毎日新聞でこれを論じます。著者は法学博士の蜷川新、書名は『維新前後の政争と小栗上野の死』でした。蜷川は続編の第8章に、この評のほか新聞の論評4本、私信1通、小説の一節を集めています。

花見は、蜷川が西郷や勝海舟を小栗に並ぶ者ではないと言い切った点を痛快としました。そのうえで海軍と仏国式陸軍を作った働き、旗本に限って兵を集める仕組みを設けたことを数えます。それが日本の徴兵制度のもとであり、大村益次郎の思いつきではないという見方です。大正4年の横須賀造船所50年の祝いでは、銅像の費用として皇后から200円が贈られました。

大阪新聞に評を寄せた福良虎雄は、40年近く前の旅で得た1枚の写真から書き起こします。小栗の娘の夫にあたる小栗貞雄と30年来の付き合いで、その貞雄から本を贈られたのだそうです。福良は小栗の死を佐久間象山と並べて惜しみました。長州征伐の費用の調達、横須賀造船所の創設、兵庫開港にかかる支出、大阪の商人に会社を作らせた献策。日本の商事会社のはじめであり、引きかえのできる紙幣の最初でもあると福良は書いています。

私信を寄せた野田は、世良が庄内への出兵より前に福島で殺されたはずだと指摘しました。父から聞いた奥羽でのいきさつを伝え、官軍のやり方をひどく陰険だと評しています。勝った側の欠点が消され、良い点だけが何十倍にも大きく語られる、とも嘆きました。小説『大菩薩峠』の中里介山は、西郷と向き合うべきは勝ではなく小栗だったと書いています。介山によれば、小栗の策は箱根を越えさせて討つこと、海軍で連絡を断つことでした。

論評者の中村修二は、この本に二つのねらいを読み取り、最期の場面も書き写しました。4月6日の朝、烏川の河原で家来3人に続いて小栗が斬られ、養子の又一も殺されます。蜷川の母は小栗の夫人の妹で、幼いころから小栗の無実の罪を聞かされてきたと自序にありました。その蜷川は、小栗を斬った下役人の名を知りながら、あえて書きませんでした。

この記事を読むと、1冊の本に寄せられた6つの反応と、そこで語られた小栗の事業や最期が分かります。自分の書への異論まで削らずに並べた、蜷川のやり方もたどれます。

目次

大阪毎日、十二月十二日

昭和三年(1928年)十二月十二日、大阪毎日新聞の紙上。原文
史家の花見朔己が、一冊の新刊を論じている。原文
書名は『維新前後の政争と小栗上野の死』。原文
著者は法学博士の蜷川新。原文原文

幕府方の岩瀬忠震や小栗上野介を挙げる者はほとんどいない、と花見はまず書く。原文
しかし歴史は「花やかな一場面のみを以て形成されるものではない」。原文原文

蜷川は続編の第八章に、この評をそのまま収めた。原文
花見の評だけではない。原文
新聞に載った論評が四篇、私信が一通、それに小説の一節。原文
一年前に出した書へ、どこから何が返ってきたか。原文
それを世に示すための章である。原文

原文『維新前後の政争と小栗上野 続』第8章 NDL コマ 152

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「偉大なる権謀家」

花見が痛快と呼んだのは、蜷川の断じ方だった。原文
西郷を「偉大なる權謀家」とし、勝海舟かつかいしゅうを「老獪なる才人」として小栗に匹敵しないと言い切る。原文
これは一時の感情論ではなく、悉く論拠がある、と花見は評する。原文
花見が引くこの二語は、章末の断り書きにあるとおり蜷川自身の筆である。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野 続』第8章 NDL コマ 144

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花見が力を込めるのは、忘れられた功績の列挙だ。原文
海軍の創設、仏国式陸軍の創設。原文
旗本(将軍直属の武士)に限ってのことだが「賦兵の制」を布いたことは、日本の徴兵制度の基礎であり、長州の大村益次郎の創意ではない。原文
大正四年の横須賀造船所開設五十年祝賀の折、銅像建設費として皇后から金二百円が下賜された一事が、その貢献を物語る。原文
そして「郡縣制」の施行を主張していたことには、眼識の高さに驚くほかない、と花見は書く。原文原文

蜷川自身は、章の冒頭で読者からの手紙を紹介している。原文
東北戦争は薩長の陰険な挑戦だったと詳しく報じてきた人。原文
万延元年ごろの米国の新聞が京都大学にあると教えてくれた人。原文
維新の人々を大英雄として崇拝してきた誤りに気づいたと書いてきた大学生と師範学校の学生。原文
小栗は西郷でなく大久保に比すべきだと言う人もいたが、幕府方の代表が小栗で薩長の代表が西郷である以上、両者の比較が至当だ、と蜷川は退ける。原文原文

ワシントンの写真

大阪新聞に評を寄せた福良虎雄は、四十年近く前の旅から書き出す。原文
荷の底に一枚の写真があった。原文
ワシントンで武藤山治から贈られたもので、もとは慶應義塾図書館長の田中一貞が、一行の宿ったホテルの経営者から得て複写したものだった。原文
福良は小栗の女婿にあたる小栗貞雄と三十年来の交わりがあり、その貞雄から蜷川の書を贈られたと記す。原文
日本の使節としてワシントンに乗り込んだ幕府の重臣が、時世が一変して官軍(新政府側の軍)に殺される。原文
福良はその死を、佐久間象山と並べて惜しむ。原文
象山は五十三歳、小栗は四十二歳であった。原文
「誤解と群疑はこの兩偉人を殺したのである」。原文
さらに福良は、勤王派と佐幕派を、急進党と漸進党として捉え直す。原文
どちらも国政の改革が必要だとは考えていた。原文
違いは、幕府を倒さねばならないと見たか、公武合体で改革できると見たか、である。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野 続』第8章 NDL コマ 146

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二千五百(米の収穫量で表す領地の大きさの単位)の旗本が勘定(財政係)奉行(幕府の役人)として、窮乏した幕府の財政を維新まで支えた。原文
長州征伐の軍費を調達し、横須賀造船所を創設した。原文
兵庫開港に際しては税関、波止場、灯台の費用を賄い、大阪の商人に商社を組織させ、金札発行の免許を与えるよう献策させた。原文
日本における商事会社の嚆矢であり、兌換紙幣の最初でもある、と福良は書く。原文原文

福良はその意見書の末尾を引く。原文
いずれも明治に入って実現したものだ。原文原文

横須賀造船所を作るとき、幕府の命はもう長くないのに無駄だと言う者がいた。原文
小栗は答えたという。原文
貧乏して家を人手に渡すときでも、土蔵が付いていればその家に値打ちがある。原文
福良はこの言葉を、小栗が大勢を知っていた証として伝える。原文原文

福島からの一通

蜷川はさらに私信を一通載せる。原文
「庄内追討は薩の大山長人世良等の仕事」とあるが、長州の世良は庄内征伐より前に福島で殺されたのではないか、と野田は指摘する。原文原文

野田が幼時に父から聞いたという奥羽の顛末は、こうだ。原文
維新の前、勅使(天皇の使い)の醍醐が仙台、福島、二本松を説き、須賀川の旅宿で江戸から来た世良と会った。原文
世良は大本営の意見として、会津征伐と同時に奥羽各藩も征伐すると決したとの密書を醍醐に示した。原文
それが仙台の隠密に奪われた。原文
二人は商人に扮して福島へ逃れ、仙台藩の番人に捕らえられ、世良は殺された。原文
醍醐は当時十九歳。原文
野田の父がその顔を覚えていて勅使だと告げ、船で仙台へ逃したという。原文
父は明治十八年に醍醐に面会し、命の親として感謝された、と野田は書く。原文原文

勅使で忠順を誓わせて油断させ、一方で一挙に撃破する。原文
野田はそれを「實に陰險なり」と評し、あなたの断案のとおり官軍の詐術に陥ったのだ、と蜷川に告げる。原文原文

小栗への判断を大きく誤っていたが、おかげで目が開かれた、という意味である。原文
歴史は勝てば官軍の言のとおり、勝った側の悪い点が抹殺され、良い点が幾十倍にも誇張される、と野田は嘆く。原文
三十三歳で米国に渡った旗本の大身が兌換券を理解していたことに敬服し、晩年に会った由利公正を「非常の英傑とも、俊耄とも」思えなかったと添えている。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野 続』第8章 NDL コマ 154

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千両役者と黒幕

小説「大菩薩峠」の作者中里介山の一節も、蜷川は引いた。原文
東京日日新聞の六八六、六八七回である。原文
舞台は二人が背負い、他の役者は無用になった。原文
だがその背後、江戸の側には、勝より上の役者が一枚控えていた。原文
舞台が正当に回れば、西郷を向うに回して立つのは勝ではなく小栗だった、と介山は書く。原文原文

介山は小栗を豊臣家の石田三成と同じ位置に置く。原文
ただし三成は佐和山二十五万石の大名で野心満々の投機者、小栗は二千七百石の旗本で忠実な譜代の実際家、と分ける。原文
米国で金銀の量目を研究し、帰国後に小判の位を三倍に上げた緻密な頭。原文
酒をたしなまず、職務に勉励し、上には剛直に言い、貶黜されること七十余回。原文原文

介山が伝える小栗の作戦は三つある。原文
第一、聯合軍に箱根を越えさせて討つ。原文
第二、幕府の海軍で駿河湾から砲撃して連絡を断ち、前進部隊を自滅させる。原文
第三、海軍で兵庫方面からも連絡を断つ。原文
仏式に訓練した五千の精鋭、会津を中心とする東北の二十二藩、新鋭無比の海軍。原文
これを将軍に進言というより迫ったが、三百年来はじめての将軍直々の免職で万事休した、と介山は書く。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野 続』第8章 NDL コマ 155

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介山はもう一つ、逆の問いを立てる。原文
明治十年の西南の乱で西郷を成功させていたらどうなったか。原文
必ず西郷幕府ができ、維新は建武中興の程度に止まり、西郷は足利尊氏に祭り上げられただろう。原文
小栗にはそうなる「器度」がなかった。原文
成功しても徳川全盛には戻らず、郡県制や西洋文物の輸入はむしろ素直に進んだかもしれない、と介山は見る。原文

姉の夫

論評者の中村修二は、蜷川が国史専攻の学者ではないと断った上で、この書には二つの焦点があると読む。原文
一つは、小栗を天下に知らせること。原文
もう一つは、維新前後の史実への刺戟となることである。原文
勝海舟の「小栗の眼中には唯德川氏ありしのみ」という放言に対し、蜷川はその旧僚を陥れる心事を憐れむ、と中村は引いている。原文
中村は、蜷川の記す最期の場面を写している。原文
薩長人は「小栗に七千人を擊退するに足るの軍備あり、小栗には朝廷に反逆の企圖あり」として小栗を縛し、三倉村の陣営に連れ去った。原文
福良の評によれば、高崎、吉井、安中の三藩に寺を包囲させ、養子又一(二十一歳)を人質として高崎藩へ送ったが、それでは手緩いとされた。原文
四月六日の朝、烏川の河原の荒蓆の上で、まず家来三人の首を刎ね、次いで小栗の首を斬った。原文
鈍刀で、一太刀では終わらなかった。原文
又一と家来三人も殺された。原文
序文を書いた山川男爵の一句を、中村は引く。原文
「武家に武器あるは猶商家に商品あるが如し、何ぞこれを以て罪とすべけんや」。原文
武家に武器があるのは商家に商品があるのと同じで、罪になどなるはずがない、という意味である。原文
では、なぜ蜷川はこの書を書いたのか。原文
中村が引く蜷川の自序が、それに答えている。原文
著者の母は小栗上野介の夫人の実妹であり、蜷川は幼時から小栗の人物と事業と「寃罪」を聞かされてきた。原文
野田も手紙の末に「貴公の御叔母上の御難儀」を推察している。原文
蜷川にとって小栗は、叔母の夫だった。原文
その蜷川は、小栗を斬った下役人の名を知りながら、故意に書かなかった。原文
自党一派のことばかりを世に彰表し、反対側を沒却するのは、士人として偏狭である。原文
日本の歴史家は何を目的に歴史を書いてきたのか、と蜷川は問う。原文
福良は、この書の維新史観には悉く首肯できないとも書いている。原文
慶喜の一勇断で無事に成るはずのところを薩長の野心が内乱にしたと論ずるのは「極端に失する」、と。原文
蜷川は、その異論も削らずに載せた。原文
それ自体が、人物を正しく論述するという「信義」の一つの形だったのではないだろうか。原文
星霜六十年。原文
彼を殺した者も地下の人となり、墓の木もまた長じた、と福良は書く。原文
権田村の寺の墓に伸びた木の下で、ワシントンで撮られた一枚の写真は、いまも三人の使節を並べて立たせている。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野 続』第8章 NDL コマ 145

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この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本蜷川新 著『維新前後の政争と小栗上野 続』日本書院出版部、1931年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1179005
日付・人名本文の日付 1 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 3 名は、元本との逐語一致で確かめています。この記事の年代は『維新史料綱要』の巻の範囲外です。

本記事は『維新前後の政争と小栗上野 続』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蜷川新の著書は1928〜31年のもので、幕臣側の立場から書かれています。現在の研究とは異なる場合があります。

人物勝海舟小栗忠順池内大学1928昭和